『火垂るの墓』では、清太は節子が健気なことを言うと泣くんですよね。
たとえば「ウチ、おばちゃんに聞いてん。お母さん、もう死にはってお墓の中にいてるねんて」ってふうに言われると、もう清太はワンワンワンワン号泣するんですけども。
ところが、いざその節子が死んじゃうと、もう清太は全然 泣かないんですね。
たとえば一晩 死体と添い寝してあげるときも、目が無表情なままなんです。
無表情のまま寝てると。
これは遺体を火葬するシーンなんですけども、遺体を火葬するシーンでも清太の顔は、わざと無表情に描いてるんですね。
それで炎の照り返しの、目の中の赤い光だけがチラチラしてるというですね。
完全に “悲しみ” を描こうとするのではなくて、無表情を描いてる。
この無表情を描いてるのも、一応それなりに理由があってですね。
これは演技者が無表情でも観客はその表情に勝手に悲しみとかを見てしまうというですね。
このような映像効果を “クレショフ効果” と呼びます。
これはソ連になるまえかな?
ロシアの映像作家が見つけた効果なんですけども。
クレショフ効果でよく出てくる画像がこれです。
無表情な男と、子供の死体を交互に見せると、この男は悲しんでいるように見える。
無表情な男と、湯気が立っているスープを交互に見せると、この男は食欲に動かされているように見える。
次に無表情な男と、誘惑する女の写真を交互に見せると、この男は欲望を抱いているように見えるっていうですね。
一般的に “モンタージュ理論” とも言われるんですけども、モンタージュっていうのは「映像を編集する」という意味なので。
映像を編集して、このような心理効果を出す事を “クレショフ効果” ってふうに呼びます。
で、宮崎駿は、このクレショフ効果が大嫌いなんですね。
宮崎駿は、こういうのが大嫌いで「そうじゃない!」と。
宮崎駿が好きなのは、こういうヤツなんですよ。
これは『天空の城ラピュタ』のドーラ婆さんなんですけども、ドーラが独り言を言いますね。
「あまったれるんじゃないよ! そういう事はね、自分の力でやるもんだ!」ってパズーを叱った後。
「んん? そのほうが娘が言う事を聞くかもしれないねぇ」ってふうに、独り言を言うシーンなんですけどもですね。
これ、演技を付けてるわけですね。
キャラクターに演技を付けて、ドーラがどんなキャラクターか凄く分かりやすくしてるんですよ。
でも高畑勲は、こういうふうにキャラクターに自分が思っている事を言わせて、それで見ている人間に「こんなふうに考えているんだ」って分からせる事がイヤなので、クレショフ効果を使って無表情な状態の清太を見せる事によって、悲しみを表現しようとしているわけですね。
で、何が言いたかったのかっていうと、清太が無表情な理由。
僕らが勝手にこのシーンを見てワンワン泣いちゃったりするのは、この顔が悲しみを抑えて、一生懸命 普通にしているような、けなげな状態に見えるから。
だからこのシーンを見て凄く感動しちゃうんですけども、そうじゃなくてですね。
おそらく この時の清太は人間性を失ってるんですね。
人間性を失ってるから、妹が死んでも腹が減るし、雑炊も食べるし、スイカも食べちゃうと。
で、「あぁ、もう世話をしなくていいんだ」とホッとしてるから、安心してお腹が減っちゃうと。
この「死んだからホッとした」っていうのは、原作者の野坂昭如 自身が、高畑勲と映画を作る前の対談で話している。
「この部分を必ず、映画の中で使って下さい」と。
「俺はそんなにキレイな人間じゃないんです。妹が死んだとき、正直ホッとしたんです」っていう事を一生懸命 訴えて、高畑さんに約束させたって部分なんですけども。
だから妹を焼くときに炭を買いに行くんですけども、そのシーンでも淡々と買いに行けるわけですね。
「連合艦隊が沈んだ」と聞いた時には殴りかかるぐらい興奮した清太が、炭屋のオジさんに「(節子を)裸にして豆殻と焼いたら、よう燃えるわ」と言われたときに、まったく心が動かなくなってる。
つまり、どんどん人間性が壊れて無くなっちゃっていくわけですよね。
ところが僕ら観客っていうのは、人間性が壊れた清太っていうのを見て、その代わりに人間性を取り戻して、感情が動いて泣いてしまうという。
こういうすごいアクロバチックな構造で出来ている映画なんですけども。
高畑勲は、清太が人間性を失っていく、そういう過程もちゃんと描くし。
同時に、おかゆを食べたり、スイカを食べたりっていう証拠は出すんですけども、わざわざそこを悪し様にガツガツ食ってるところは出さない。
そこらへんは凄く上品な演出なんですね。
なので、普通の見方をしていると、本当に分からなくなっちゃう時があるんですよね。