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質問文:
電子書籍が販売されていますが、電子書籍は印刷代、紙代、流通費用などがかからないのに、書籍版と値段が同じなのは、どうしてなのでしょうか?
教えてください。
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これ、本当によくある質問で、過去にも、たぶん似たような質問に2年に1回くらい答えていると思います。
まあまあ、じゃあ、フラットに話しますね。
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正直な話をすると、電子書籍というのは、紙の本に比べて、たぶん3分の1くらいの値段に出来るんですよ。
もちろん、一般の書籍を電子化するためには編集さんなども必要だったり、いろんな事情があるんですけども。間違いなく、3分の1くらいの値段には出来るんです。
でも、そうすると、紙の本の値段が今の3倍になっちゃうんですよ。こういうジレンマがあるんですね。
漫画の単行本で言うと、今、500円で売っている漫画は、本来、電子書籍にしたら200円くらいがリーズナブルな値段なんです。
でも、電子書籍を200円で売ると、たとえば少年ジャンプの単行本だったら、「電子版は200円、そのかわり、紙版は2000円」ということになっちゃう。
電子書籍が3分の1の値段になると、紙の本は3倍になる。
ここで、ほぼ10倍の差がついちゃうんですね。
するとどうなるのかというと、まあ確実に、日本中の書店のほとんどが潰れるんですよ。
つまり、「なぜ電子書籍は安くならないのか?」という話を始めると、「日本中の本屋さんが潰れるけど、それで大丈夫ですか?」っていう話に行き着くんです。
大体の人は、こういう話をすると「いや、だったらもう、それでいいよ」って言うんです。
「いや、もう、思い切って、蔵書は全て電子書籍にしようと思ってた」というような、家の中が本で溢れてるという人もいるでしょうし、「いや、3分の1の値段に出来るんだったら、さっさとしてくれ!」っていう人も多いと思うんですね。
他にも、「俺の近所では、本屋なんてとっくに潰れてるから、何も考えることがない」とか、「俺は紙の本もAmazonで買ってるから、どっちにしろ近所の書店は潰れるよ」とか、いろんな意見があると思うんですけども。
ここから理論展開していきます。
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「俺は電子書籍で読めればいい。紙の本なんて、それでも紙で買いたいと言うようなお金を持っている人だけが買えればいい」というのは、いわゆる “ホリエモン的な理屈” なんですね。
ホリエモンという人について、僕自身、好きか嫌いかで言うと好きなんですけども。
まあ、こういうのはホリエモンがよく使う理屈なんですよ。
これの何が危険かといったら、「買いたい人が買えばいい、別に潰れる本屋は潰れればいい」と言うんですけど、この本屋というものは、たぶん、一度潰れてしまったら、もう戻せなくなるんですね。
そして、この国から書店というものがほとんど潰れたら、僕らの社会がどうなるのかというのは、実は分かっていないんですよ。
まあ、欲しい本は手に入れやすくなると思います。
だって、値段が安くなるんだから。
でも、「はたして、私はどんな本が欲しいんだろう?」とか、「僕が欲しくない本には何が書いてあるんだろう?」ということが、どんどんわかりにくくなるんですね。
僕らは知的好奇心というのを持っているんですけど、その知的好奇心というのは、好奇心というのをある程度満たせる環境があってのものなんですよ。
全てのものが「これが欲しい → 検索した → 見つけた → 安く買える」というふうになってしまうと、自分の関心がある部分の物事しか見えなくなってきて、その周りが盲点のようにどんどんボヤケてしまう。
これは別に書籍に限ったことではなくて、まあ、ネットワーク社会の弊害みたいによく言われてることなんですけども。
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では、これをやると、どうなるのかというと。
内田樹さんが「効率化だけを考える組織よりも、弱者を救える組織、弱者を含んでいる組織の方が長生きできる」っていうふうに、以前から仰ってるんですね。
僕も、この点について、内田樹さんとの対談の中で、ちょっと言い合いになったんですけども。
たとえば内田さんは「大学を残すべきだ。大学というのには、補助金を与えるだけではなく、市民全体が『大学は残さなきゃいけない』と考えて残すべきだ。自然競争のままにしておいたら大学は潰れちゃう」と言うんですけど。
僕はもう、「自然競争で潰れるような大学はもう潰していいじゃないですか」って言って、内田さんにすごく怒られたんです。
その時のセリフが「効率化よりも弱者を残しているような組織の方が、絶対に生き残る」っていうふうに言われたんですけども。
僕がその時に考えたのは、「日本にはもう大学というものを維持するような余裕がない。余裕がないところで無理矢理残したら、結局、大学に楽々行けるくらいお金がある人が大学に行くだけ。内田さんが考えている “知的な環境” が崩れていく中で、なんの助けになんにもならない。だから、知的な環境を構成しているものの中で、まず大学という、面積も取るし、文科省の予算を山程使うものをまず潰して、図書館の中に自由セミナーみたいなものをいっぱい作ることくらいでしか、立て直しは出来ない」というふうに言って、まあ、大激論になったんですけど。
対談本の中では、そこのところはバッサリとカットされたんですけどもですね(笑)。
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僕らの社会に本屋さんを維持するだけの余裕までなくなれば、たぶん、本屋さんというのはなくなります。
すると、紙の書籍というのは “お金持ちだけの娯楽” になっちゃうんです。
貧乏人というのは「そんな不便なものを、なんで欲しいの? だって、2000円もするくせに、紙だからすぐになくなったりして、どこにでも持っていけるわけでもないから、外で読めない。なのに、なんでそんな紙の本みたいな不便なものが欲しいの?」というふうに思うようになる。
金持ちは金持ちで、「紙の本は高いけど、良いんだよね」と言うようになる。
そうやって、お互いの文化が理解出来なくなる。
これが “階級化” なんですよ。
階級化というのは何かというと、「貧富の差があること」じゃないんですよ。
「貧富の差というのが固定化されて、金持ちは貧乏人の気持ちがわからなくなるし、貧乏人も金持ちが何に喜ぶのかが、根本的に理解できなくなること」なんです。
まあ、これは、本屋に限ったことではないんでしょうけれども。
本というのを電子化すれば、書籍の価格は3分の1になる。
そのかわり、紙の本の価格は3倍になる。
こういう状態を続けていると、徐々に「この本は紙でしか出ない。この本は電子でしかでない」というような仕切りがどんどん生まれて行くことになるんです。
僕らの社会、今の日本というのは、かろうじて1つの文化というのを、なんとか共有しているんですよ。
そりゃ、お互い “パリピ” だとか “オタク” だとか “リア充” だとか言いながらも、実は心の底では「お互いの何が面白いのか」というのがわかってる。
こういった世界が全て崩れていって、中世ヨーロッパの野蛮な世界になります。
俺が中世ヨーロッパを “野蛮” と言うのは、あいつらが金持ちと貧乏人という階級にハッキリと分かれていて、お互いが全く理解できなくなっていたからなんですよ。
それに対して、日本の中世と言われる室町から江戸時代というのは、実は庶民であろうと、百姓であろうと、武士であろうと、だいたい同じものを面白がったり喜んだりという、すごくフラットな文化圏を持っていた。
そんなメチャクチャ豊かな民族なので、「それを失っちゃうのもったいねえな」って思うんです。
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ただ、実は、僕もホリエモンに賛成する所が、かなりあるんですよね(笑)。
なので、「いやあ、もう、本の値段を3分の1にして、全部電子で出して欲しいよ」って思いながらも、「それをやっちゃうと、今の本文化というのは完全になくなっちゃうんだよな。家族の中に障害者がいたら、それを切り捨てるんじゃなく、一緒に生きていくことで何かがあるのと同じように、ここら辺は負担として抱えるしかないんじゃないかな」というふうに、ちょっと思っています。
すみませんね、面倒くさい話をして。