アメリカでは、銃による犯罪がやみません。
マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画『ボウリング・フォー・コロンバイン』は、1999年に起こったコロンバイン高校銃乱射事件を題材とし、被害者や市民、全米ライフル協会会長のチャールトン・ヘストンにまでインタビューを行っています。
この映画で描かれたように、アメリカ人はどうしても銃を捨てることができません。
全米ライフル協会が政治的に大きな影響力を持っているということもひとつの理由ではあるでしょうが、武器を持った奴らが自分たちを襲いに来るかもしれない、そう一般市民が恐怖心を持っていることが最大の理由だと思います。
一度武器が蔓延して社会が不安定になってしまうと、どうしてもお互いを信頼することができないんでしょう。
日本人は、そんなアメリカ人を見て笑います。
「最先端技術の国なのになんて野蛮なんだ」
「銃の所有をもっと厳しく規制すればいいのに」なんて、好き勝手なことを言いますね。
アメリカ人にも言い分があります。
「みんなが銃を持っているのに、自分一人が持っていないのは恐い」
「個人が武器を持つのは、アメリカの憲法で保証されている権利」
「害獣を撃退するのに便利」などと、言い返してくるはずです。
ほかにもいろいろと理由は付けられるでしょうが、要は銃は役に立つし、ないと不安だから手放せないということです。
これは、日本人にとってのネットとまったく同じではないでしょうか?
社会を不安定にする大事件、テロを起こせる武器という点で、銃とネットは同じです。
ならば、私たちはネットを手放すことができるでしょうか?
「調べ物に欠かせない」
「買い物をするのに便利」
「友達と連絡をとりたい」、きっとそういう理由を山ほど挙げて、ネットは手放せないと主張すると思います。
初期のインターネットは学術研究用に使われていたわけで、情報を必要とする人が調べ物をするためだけの専用ツールにすることだって技術的には可能です。
そもそも普通の消費者にとって、これほど膨大な情報が必要なのかと問われたらどう答えます?
情報断ちをした方が心身共に健康になるという人もいますね。
知り合いとのコミュニケーションにしても、電話やFAXのようにやりとりできる仕組みがあれば、生きていく上では困りません。
頭ではわかったとしても、私たちはもうネットを手放せないのです。
何も私はネットは悪だから、規制すべしと主張しているわけではありません。
アメリカ人にとっての銃と同じように、日本人もネットという武器を手放せない。
日本人にアメリカ人を笑う資格はないというだけです。
銃を手放せないアメリカでは銃を使った犯罪・テロが、ネットを手放せない日本ではネットを使った犯罪・テロが、起きやすくなります。
アメリカでは、政治的な主張があったり、ちょっと頭のおかしい人は、すぐに銃を手に入れて乱射事件を起こします。
日本でも、頭がおかしくなったり、思い詰めて粘着質になった人は、ネットで大きなトラブルを起こします。
ネットで起こる炎上などのテロに対して、私たちは対抗手段を持っていません。
ソーシャルメディアでの「荒らし」や「炎上」には、焦って対応せず収まるのを待てと言われますが、これはあくまでも一時しのぎであって、ネットテロをなくせるわけではないでしょう。
「銃を持った強盗に襲われたら、抵抗せずにお金を渡す」、
「銃を持った強盗に対抗するため、普段から家に銃を置いておく」のと同程度の自衛手段でしかありません。
こういうものなんだと諦めて、銃やネットでのテロを前提にした社会的な仕組みを作っていくしかない。
私はそれが落としどころだと考えています。
カリスマ論