取材者:渡部真
取材日:2011年3月26日
大地震と大津波が東日本各地を襲ってから約2週間後、3月26日、筆者は福島県南相馬市で取材した。
当時の南相馬市は、東京電力・福島第一原発の事故の影響で混乱していた。震災前には約7万人だった住民は、原発事故による放射能の影響を恐れ市外や県外に避難し、市内には1万人程度しか残っていないと言われていた。何よりも深刻だったのは、こうした放射能の影響について正確な情報が行き届かず、本来は届くはずの支援物資が避難所に届かず、支援物資を運ぶ運送トラックが隣接する相馬市や新地町に物資をおいていってしまう事態だった。市の広報担当者は、22日になって支援物資などが届くようになり、避難者の食事などもようやく十分に支給できるようになったと語っていた。
南相馬市は、原発事故の影響だけでなく、津波の被害も大きかった。津波による死者・行方不明者は約600人と言われ、家屋の被害も全壊・半壊合計で約1500世帯にのぼる。津波から避難した人たちだけでも数千人規模の避難者がいたにも関わらず、3月末の時点で、市内には2つの避難所しかなかった。そのうちの一つ、南相馬市立原町第一小学校を訪れた。
避難所にいた南相馬市の職員によると、この日の段階で92人がこの小学校に避難していた。その多くは高齢者、最高で90歳の方もいた。原町区の津波被害によって家を流された人や、原発事故の影響で避難指示が出された「20キロ圏内」の人など、様々な事情で地元を離れる事の出来ない人たちだった。
この避難所の炊き出しなどを、職員たちに混じって積極的に手伝っていた黒沢よしこさん(当時70歳)に話を聞いた。黒沢さんは、震災前には、夫、2人の息子、娘、もう一人の娘夫婦や孫など9人家族だったが、夫と娘が行方不明だった(同年6月の段階で、夫も娘も行方不明のまま)。
以下、黒沢さんの語りをそのままお伝えする。
自宅は、南相馬市小高区井田川地区にありました。地震があったとき、私は買い物に出ていたんです。夕飯の仕度をしに、小高の市街地に買い物に行ってたんです。買い物の帰りに、小学生の孫を迎えにいきながら帰ってきたんですけど見つからなくて、自宅に戻ろうかと思った時に地震があったんです。
自宅は国道6号線を海の方に少し下ったところなんですけど、車を運転して自宅に戻る最中に、もう水が流れてきていたんで、自宅まで戻れなかったんです。
海の方を見ると、最初は竜巻みたいに黒い波がこう登ってたんですよ。私は「竜巻かな?」と思ってたんですけど、下見たら、波と一緒に屋根の瓦が流れてきたくるんで、「こりゃ大変だぁ」と思って……。そしたら、今度は、洗濯機だとか、コンバンインだとか、冷蔵庫だとか、日常使っているものが流れてくる。あと、でっかい木も一緒になって、ゴロゴロゴロゴロって言いながら流れてくるんですよ。
南相馬市の沿岸部の多くは津波で大きな被害を受けたが。
原発事故の影響で高圧電線が垂れ下がったまま放置されていた。
私は姉に向かって「ダメだー!」って大きな声で言って、姉の手を引っ張って車に無理矢理乗せて、姉の家にあった布団を積んで、孫が通ってる中学校に向かったんです。
中学校に着いても孫たちは見つからなくて、そのまま夜まで学校で車を停めて待ってたら、突然、「婆ちゃん、いたー!」って、孫が震えながら声かけてくれて、ようやく再会できたんです。どこかに私がいるんじゃないかって、車を一台一台探してくれたんですって。
その孫と姉を車に乗せたんですけど、夜になったら雪が降ってきて寒くなってきたんで、孫に布団をかぶせて、その上にナイロンをかぶせて……。
9人家族だったけど、見つかったのは孫だけ。だからうちの旦那がどこにいるかと思ってね、夜中の12時頃、浦尻公会堂(南相馬市小高区)まで見に行ったんです。停電で街灯もなくて、道路は真っ暗で何も見えなかった。地震で道路が崩れて、ガタン、ガタンって車が音をたてるんだけど、無理矢理浦尻まで走ってったんです。でも、旦那はいなくてね。
浦尻公会堂で朝を迎えて外を見てみたら、浦尻も井田川も、何もなくなってて……。波返し(防潮堤)も家も何もなくなってて全滅。海になってた。
そしたら、沿岸部の浦尻公会堂は危ないっていうんで、金房小学校(小高の市街地の西側にある)に避難しなさいって言われたんです。金房小学校に行っても、やっぱりうちの旦那はいなくてね。でも、2人の息子たちと金房小学校で再開する事ができたんです。「あぁ、良かったなぁ」って。
この金房小学校で、近所の人が「旦那の車を見つけたよ。車の中にヘルメットがあって黒沢って書いてあった。津波に呑まれなくて良かったなぁ」って言われたんでね。どっかに生きてるんだなって思ってたんですけど、未だに見つからないんです。夜の森(南相馬市原町区)で倉庫番してたんですけど、地震があって自宅に戻ろうとしたらしいんですね。小高の蛯沢稲荷神社まできたら、津波が来てて、そこに車を停めて、歩いて自宅まで行ったみたいです。車にはちゃんと鍵がかかってたんで、そこまでは旦那も生きていたんしょうね。
もう一人、家で留守番していた娘(42歳)も、未だ見つからないんですよ。独身だったんで、私の田んぼの手伝いとかしててくれたんだけどね。
うちの隣りの人が、旦那と娘に「早く車乗れ!」って声かけてくれたらしいんだけど、「倒れた灯油缶を直してから行くから、先に行け」って言われたんだって。ズルズルしていて、流されたんだな。
この避難所(原町第一小学校)に来て、旦那と42歳の娘以外の家族たちとようやく会えてね。旦那と娘は行方不明ってことになってるけど、たぶん津波に流されたんじゃないかって思ってるんですよ。でも、どっかに生きてねえかなって信じてる気持ちもあるんです。車止めたところで、誰かの車に乗せられて、新潟かどっかに避難してるとかね。
旦那も娘もね、一度も病院行ったことないんですよ。ずっと元気だったんだけどね。
私ら、原発で食べさせてもらってたからね。ありがたい事はありがたかったけど、やっぱり恐いって思いは、ずうっとあったんだよね。昔は「原発の中で働いていると、変な子どもが産まれる」なんて言われて。でも、子ども達も無事に育って、何にも原発の影響とかなくて、子ども達も大人になってるから。
小高は、放射能の数字(放射線量)も低いでしょ。原発の事故がなければ、すぐにでも帰れるんだよ。こんなして避難生活なんてしなくてもね。
旦那も、ずっと一所懸命、原発で働いて、ようやく退職したと思ったら津波で流されちゃったからね。
私ら、井田川の干拓で入ってきたから、最初は苦労してね。干拓する時、胸のとこまで入ってきて、そうやって田んぼ作ったんですよ。すごい酷い田んぼだったんだから。
稲を刈るときだって、普通に入ったら泥のなかに入っちゃうから、田んぼの中を舟で入って、すンごい高い下駄履いて、それでようやく稲刈りしたんだから。そういう田んぼだったんだ。
それが今は、足のところまでしか入らなくなって、コンバインも入るようになって、ちゃんと田んぼになったのに、また全部海になってしまったね。
何も不自由なく暮らしていたのに、突然全部なくなってしまったね。浦尻とか井田川っていうのは、開拓して入ったから新しい家が多かったのに、何もない。私らの部落の人たちも、何人も亡くなったり見つからなかったりしてる。
私がここにきた時、この避難所には24人しかいなかったのね。いまは80人か90人かいるけど、少しずつ増えてきた。私の家族は新潟とかに避難する事になったんですけど、一人暮らしの姉と「新潟とか行きたくないね。ここに、いよう」って言って、2人でこっちに残る事にしたんです。そしたら、2人の息子も残ってくれて、娘夫婦と孫たちは新潟に避難しています。
私、心臓が悪いんで、黙っていると体に悪いんで、話聞いてくれる人がいると、こうやって話をしてるんですよ。あとね、最近になって支援物資の米が届くようになったからね、朝晩と暖かいご飯を炊けるようになったんです。やっぱり温かいご飯は美味しいからね。
この避難所で今困っているのは下着。昨日、この避難所に来て10日以上経って、私たち皆ようやくお風呂に入って着替えができたの。下着とか靴下とか、そういうものは届かないんですよね。
私ね、毎月20万円くらい銀行から降ろして自宅に置いてあったんだけど、そこから買い物に出る時に1万円くらい財布に入れて出ちゃったから、現金は全部流されちゃった。通帳も何も流されてしまったからね。だから、いま、お金がぜんぜんないのよ。家族たちも、同じようなもんだったから、皆、お金持ってないんだよ。
お風呂はいるって言っても、近所のお風呂屋さんに行けば一人500円くらいかかるんで、「風呂なんて入らなくても死なないから」って、我慢してたんだよね。そしたら、避難所の職員さんが、車で遠くの施設に連れてってくれて、そこでようやく風呂に入れたんですよ。持ってる金が少ないから、お風呂で500円使うわけにはいかないんだよね。
これからどうなるか、まだ何も分かんないからね。この避難所を出て行けって言われたら、とりあえず車はあるからね。小高にある姉の家は、地震で壊れたけど、まだ何とか建ってるから、私たち追い出されたら、そこに行こうかなって。でも、小高は原発から近いからって、まだ帰る事ができないんだよね。
どうなるんだかね。
[取材]渡部真(わたべ・まこと)
1967年、東京都生まれ。広告制作会社を経て、フリーランス編集者・ライターとなる。下町文化、映画、教育問題など、幅広い分野で取材を続け、編集中心に、執筆、撮影、デザインとプリプレス全般で活動。東日本大震災以降、東北各地で取材を続けながら、とくに被災した学校や教育現場の取材を重ねる。
■フリーランサーズ・マガジン「石のスープ」
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