とかく、スポーツの世界においては、たった1つのプレイが、その試合だけではなく、プレイヤーの人生を大きく変えてしまうケースが少なくない。それはオリンピックでも同じだが、その注目度が高い分、ワンプレイが持つ意味は、より大きなものとなりがちである。
かつてプロ野球・埼玉西武ライオンズの主砲として活躍し、2008年の北京五輪に出場したG.G.佐藤(佐藤隆彦)は、そうしたプレイによって人生が大きく変わってしまった人物の一人だ。
大学卒業後に渡米、現地のマイナーリーグプレイした後、ジャニーズ事務所のタレントの警備員としてアルバイト生活をしていたという異色の経歴を経て、2003年にプロ入りした佐藤は、2軍で好成績を記録して昇格すると、そのパンチ力と明るいキャラクターを武器にレギュラーに定着し、2007年には打率.280、25本塁打、69打点を好成績を記録。プライベートでも結婚するなど、公私共にまさに順風満帆。さらには2008年に開催された北京オリンピックにおいて、佐藤は日本代表メンバーに召集されるという栄誉を手にすることとなり、球界を代表するスタープレイヤーとしての階段を急速に登りつつある状況にあった。
しかし、どういう運命のいたずらか、彼の人生はここから大きく狂ってしまう。
これまで経験したことのなかった大舞台ゆえの緊張なのか、佐藤は準決勝となった韓国戦で、手痛い失点に繋がる失策を連発。続いて3位の座を争う形で行われたアメリカ戦でも、3失点に繋がるまさかの落球でチームの敗因となってしまうなど、それまでの順調さがまるで嘘であるかのような精彩を欠くプレイを連発し、これまでとまったく異なる形での"注目"を集めることとなってしまった。
無論、こうした彼のプレイに、日本のメディアからは酷評の嵐。挙げ句、普段は野球を見ることもないような人々までもが、ネット上などで彼に大バッシングを浴びせることとなってしまった。当時、これらのあまりに手痛すぎるミスを連発した佐藤は、持ち前の明るい性格が影を潜め、日本にいる新妻に向けて、自殺をほのめかすメールまで送るほどに、その精神状態が追い詰められていたという。
その後、佐藤は、こうした精神的なショックが原因となってしまったのか、完全に調子を狂わせてしまい、レギュラーシーズン復帰後も、たった数試合に出場しただけでシーズンを終え、球団側がカウンセリングを受けさせることまで検討するほどの酷い精神状態に陥ってしまったという。その後も彼の不調は続き、以後、懸命な努力の甲斐あって、何度か復調の兆しを見せることはあったものの、それも長くは続かず、2010年に受けた手術後は、さらにその凋落著しい状態となり、ついに2011年のオフには戦力外通告を受けることとなってしまった。
しかし、それでも夢を諦められなかった佐藤は、一念発起。翌年、野球自体があまり盛んではない欧州・イタリアへと渡って、現地リーグでプレイヤーとなると、そこで彼本来の「野球」を取り戻したのか、発奮。好成績を記録し、その翌年には、日本のクラブチームへと移籍すると、コーチ兼任という状態ではあったものの、若手に混ざって数試合に出場してその存在感と復調ぶりをアピールすることに成功。さらにその後、西武時代の恩師である伊東勤が千葉ロッテの監督に就任したことを機に、同チームへと入団。再び彼は日本のプロ野球でプレイすることとなった。
千葉ロッテのプレイヤーとして臨んだ2013年、佐藤はたった30試合の出場に留まり、その成績も、打率.255、2本塁打、9打点と、その全盛期からすれば寂しい結果でシーズンを終え、さらにその翌年は、とうとう1軍に呼ばれることもなくシーズンを終えて、同年オフの戦力外通告を機に引退することとなったが、こうした結果にはなったものの、その「やりきった」という感じは、多くのファンも共感を覚えたことだろう。
現在は、かつてのチームメイトと共に、一般企業で働いているという佐藤。とかく、日本では一度失敗してしまうと、やり直しが許されない環境に置かれがちだが、そうした逆風に抗い続け、また、自身の抱える苦悩や葛藤と戦い続けた彼の生き様は、その成績以上に、多くの人々を強く勇気づけたと言えるかもしれない。
文・吉竹明信
■今月のAOL特集
マコーレー・カルキン、エドワード・ファーロングら元人気子役たちの今&昔【フォト集】