制作費の下落と配給手段の急増によって、アメリカ海軍から宗教の過激派グループまで映画制作に手を出してみようかという気にさせるらしい。その結果として神経を乱されるものから爆発してしまうものまでいろいろあるようだ。
最近の例では、強い反イスラム教的感情を煽る扇情的な映画、『イノセンス・オブ・ムスリムズ (Innocence of Muslims、直訳:イスラム教徒の純朴さ) 』がある。この映画は、バックステージでキャストが募集され、パラマウントのセットで撮影が行われたものだが、これによりイスラム世界中の緊張が高まり、リビアのベンガジでアメリカ領事館のクリス・スティーブンス大使が襲撃を受けるなどの一連の暴動を引き起こすこととなった。
これがパンフレットやネット上の投稿であったなら、同じ効果があっただろうか。あるいは映画として制作されたために、さもなければ頭ごなしに否定されていただろうこのバカバカしい表現行為に対して何らかの権威が与えられたものであろうか。その答えはインディペンデント映画の歴史と、そのような映画界を根底から覆すような変化の中にあるようだ。
1989年から2002年のインディーズ映画の全盛期に、ジム・ジャームッシュ、スパイク・リー、スティーヴン・ソダーバーグ、キンバリー・ピアース、そしてデヴィッド・O・ラッセルなどの反抗的な映画監督らが、コロムビア映画や20世紀フォックス映画などが手を出さなそうな登場人物や特定の問題に焦点を当てたアーティスティックで低予算の映画をスタジオシステムの外側で制作するチャンスを利用したのだ。
その監督らは、ある程度は自由さを満喫していた。少なくともスティーブン・スピルバーグやジェームス・キャメロンの世界がつかっているものと比べれば、その予算は低かった。しかし、デジタル時代の前の時代では、ゲリラ的な映画制作でさえコストは高かった。先月、スパイク・リー監督はこう語っている。「私達の世代は、学位を取るために映画学校に行っていたわけじゃありません。機材を入手するために行っていたのです」
さらに言えば、インディーズ映画の一番の目的は素晴らしいストーリーを伝えることにあると、最近のほとんどの映画制作者はいう。映画で利益を出すことができればラッキーだが、もし利益が本当に大事であればスタジオで働くべきである。映画が主題や時代の潮流に関する注目を高めたとして、しかしそれが映画制作の主要な目的であったとしたら、ハリウッドではなくワシントンで行うべきだろう。映画制作の文化の中では、ストーリーを伝えることが本質的に最も重要なもの、あるいは高潔な行為とさえみなされており、恥知らずの政治的宣伝を行う者や工作員のほとんどは、この文化からは締め出されることになる。彼らはこのクラブにはお呼びではないのだ。
そしてスクリーン上で見せられるような品質からはほど遠く、ペットに対するある考え方を広めたり、または現実上や想像上の敵を中傷したりするだけの映画を制作するために必要な資金をなんとかかき集めたとしよう。誰がそれを上映してくれただろうか。すべてのフェスティバルからアートシアター、VHSのレンタル・チェーン店といった配給先は、大勢の流行仕掛け人によってガードされていた。もちろん、あの悪評の高いビデオ販売店で、ヨーロッパ物のポルノ映画のちょうど横に自分の映画をおいてもらうことはできたかもしれない。でもその方法で、いったいどれだけの観客数を獲得することが期待できるだろう。
明らかに、状況は変化している。もし、かつてハリウッドがクラブであったとしたら、今はむしろカジノのようだ。スタジオでは、本やボード・ゲーム、またはツイッターのアカウントなどの認められている「プラットフォーム」があれば誰でも、長編映画で「自分のブランドを収益化」させることが推奨されている。そしてインディーズの狂気じみた世界では、すべての賭けはキャンセルとなる。
いろいろな点において、インディーズ映画の世界は人工的な障壁と奮戦する必要もなく新しい考え方が登場し、観客へ伝えることができる刺激的な革新が起こるシーンである。しかしそこにはダークな側面もある。
例えば、あなたがアメリカ海軍であったとしよう。例の外国の地での終わりのない戦争のために新兵への募集数は減ってきているので、改めて若者たちが軍隊に対して気分を盛り上げさせる方法が必要であったとする。そこで映画制作者たちに海軍特殊部隊の功績を謳ったアクション映画のオーディションを持ちかけ、その結果できた映画、『ネイビーシールズ (Act of Valor) 』などを国中の映画館で上映させてみてはどうだろうか。誰も長編のリクルート映画全編を観るために座っていることには気が付かなくてもよい。
または、もしあなたが反イスラム教の過激な狂信者で、理由はいまだに謎のままではあるが、世界の人口のかなりの部分を占める人達を敵に回したいと思っているとしよう。エージェンシーもスタジオも必要はない。バックステージのサイトに広告を出し、メンバーを集め、YouTube上にトレイラーを掲載すればいいだけである。最近の映画制作や配給を行う障壁は低いので、文字通り誰にだってできるのである。
残念なことに、視聴者にとってはその事実が常に明白ではないようだ。イノセンス・オブ・ムスリムズの制作価値は笑いたくなるほどバカバカしく見えるかもしれないが、同映画のトレイラーをアラブ語版で観た者が、即座にこれが少数のペテン師によって作られているという結論に達しないことは想像に難くない。誰もがブログに投稿したり、携帯電話で動画を撮影したりすることができるが、ハリウッドやボリウッド、そしてその他のごく少数の選ばれて者だけが映画を制作することができる、というのは、それが現実でないとしたら、大多数の人の考え方だろう。映画を制作するためには、スポンサーやプロデューサー、マーケティング担当、あらゆる類の支持者らが必要とされる。一つの映画が存在しているだけでも、それが資金を持った人、コネクションを持った人、センスのある人など多くの人々によって支えられているということを意味している。
現在の状況は変わっているが、しかし考えというものは現実ほど素早く変わるものではない。その間は、私たち皆が、自分の目の前にある画面上に自らの見解を映し出しているのがいったい何者なのか、そしてその理由に対してもっと注意を払うべきである。
(原文:'Innocence Of Muslims' Proves That Literally Anyone Can Make A Movie These Days )
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マイケル・ホーガン
Huffington Post エンターテインメント・エグゼクティブエディター
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