いわゆる『セクハラ野次問題』が、予期せぬ大騒動へと発展してしまった東京都議会。野次を飛ばしたとされる鈴木章浩氏が、被害を受けたという塩村文夏氏 に対し、多くのマスコミ陣が見守る中で直接謝罪するという、前代未聞の出来事にまで発展したが、我が国において、野次に限らずこうした挑発行為は、実は何百年も前から存在していたことが、多くの史料から明らかとなっている。
世相や時の権力者に対する挑発は、無記名で立てられる高札や落書が有名で、その多くは、誰が書いたのかも、掲げたのかもわからず、ただわかっていることは、深夜の誰もいない時間帯にこっそりと設置され、翌日になって大騒ぎとなるという点だった。「此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀(にせ)綸旨(この ごろみやこではやるもの ようち ごうとう にせりんじ)」という書き出しではじまる建武の親政を批判した『二条河原の落書』は、歴史の教科書にも載っているため、多くの人が知るところ。
また、そうした権力者や政治に対する批判ではなく、対個人ということであれば、戦国時代には世相が世相ゆえなのか、実に優れた"挑発"を行う者も現れた。その代表例が、徳川家康に仕えた猛将、本多忠勝である。信長が本能寺の変で没した後、家康方(織田・徳川連合軍)と秀吉方(豊臣軍)の正面衝突となった小牧長久手の合戦において、忠勝は秀吉を挑発する目的から、「それ羽柴秀吉は野人の子。そこから馬前の走卒になり...」と、貧農から一代で成りあがった秀吉の出自に触れることでプライドを刺激しつつ、さらに信長の恩に報いぬ「逆賊」呼ばわりした檄文を高札として掲げ、秀吉を激怒させることに成功した(それに加え、歴史小説などでは、秀吉に聞こえるように大声でヤジる姿などが描かれている)。
しかし、怒りに任せて兵を動かしたところで好ましい戦果など得られるはずもなく、結果として秀吉方は、家康方の約5倍近い損害を生み出してしまうこととなる。このように、野次に限らず、相手を挑発する行為は、今も昔も様々な場面で行われてはいるが、本多忠勝のように、「明確な目的と策があってのもの」ならばいざしらず、「単なる罵詈雑言」となってしまっては、我が身を追い込むだけの愚行でしかない。また、野次られた側も、秀吉のように激怒してしまっては、戦局を見誤ってしまう危険性も存在している。君子危うきに近寄らず。いずれにしかり、自ら危険を招く行為は避けたいものである。
文・興津庄蔵
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