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2003年10月25日、秋季コスモスリーグのヤクルト×巨人戦、ヤクルト側の3番手として登板したのは、背番号21番の伊藤智仁(当時33)。この日が約1年ぶりの実戦登板となった伊藤は、打者3人に対して17球を投じ、内野ゴロで1アウトこそとったものの、2つの四球を与え、マウンドを降りた。かつて、並み 居る強打者をねじ伏せたMAX153km/hの剛速球は見る影もなく、この日の最速はわずか109km/h。「復活を賭けた戦い」としてみれば、あまりに寂しい結果となったが、マウンドでボールを握りしめる伊藤の表情は、どこか満足げなものであるかのように映った。




1993年秋のドラフトにおいて、目玉として注目された伊藤は、ヤクルトから1位指名されて入団。翌94年は開幕まもない4月20日の阪神戦で、150km/hを超える速球と、真横に滑る自慢の高速スライダーを武器に、阪神打線を7回2失点、10奪三振を奪う快投ぶりを見せ、デビュー戦を飾る。その後も新人離れしたピッチングを披露し続けた伊藤だったが、ルーズショルダーを抱えた中での連投に肘を故障。実質的に実働3ヶ月でデビューシーズンを終えた。しかし、14試合の登板で7勝2敗、防御率0.91、奪三振数126という、並外れた成績で、この年の新人王を獲得することとなる。



しかしその後、伊藤は度重なる故障に泣かされる形で、不本意なシーズンが続くこととなった。97年には当時の守護神・高津臣吾の代役として7勝2敗19セーブを挙げ、カムバック賞を獲得するも、繰り返される肘痛・肩痛と戦いながらの苦しい毎日。それでもかつてのピッチングを取り戻そうと、2002年オフ、伊藤は球団側から引退勧告が行われたものの、文字通りの「ラストチャンス」として願い出て、史上最大となる88%減の年俸で契約し、現役を続行する。そして、翌年、再起を掛けて1年間の練習の末にたどり着いたのが、冒頭で触れた、ラスト登板であったのだ。それから4日後の10月29日、球団からの勧告を受け入れた伊藤は、現役生活に終止符を打ち、ユニフォームを脱いだ。

実働7年間で記録した伊藤の成績は、37勝27敗25セーブ、 防御率2.31、548奪三振。当時、監督を務めていた名将・野村克也をして「長いこと監督をやってきたけど、あいつがNo.1だよ」と言わしめた逸材は、その期間こそ短いながらも、本拠地・神宮の夜空に咲く大輪の花火のごとく、その鮮烈なイメージを、我々ファンの心に刻み込んだ名投手であったと言えるだろう。

文・吉竹明信

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