ゼフィさん のコメント
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今週のお題…………「 なぜK-1は成功したのか?」
文◎ターザン山本(元『週刊プロレス』編集長)……………金曜日担当
Kー1の成功? そんなもん決まっているじゃないか。 全ては石井館長の野心、野望さ。それ以外に何があると言うのだ。あの人の執念、怨念だよ。それって大事なことだよ。だって自分に絶対的な自信がないと出来ない。館長は自信の塊だった。間違いないよ。じゃあ、何に対しての怨念、執念なの? プロレスだよ。プロレス。
格闘技側の人には俺たちは真剣勝負をやっているのに、なぜプロレスはあんなに人気があるの? プロレスは真剣勝負じゃないだろ? そのジレンマ、腹立たしさが溜まりに溜まっていた。それが格闘家の共通した思い。しかもA・猪木は異種格闘技戦をやってプロレスラーの強さを次々と証明して来た。さらなる苛立ち。これはアタマにくるよな。ただプロレスはあくまで興行。格闘技は純然たる競技。この違いは決定的だ。格闘技が興行を重視したら真剣勝負のイメージが損なわれてしまう。だから興行には手が出せない。そういう足かせがあった。
石井館長はそこの縛りを果敢にぶち破った。興行でもプロレスに勝ってやろうじゃないかとね。格闘技の道場の師範や先生にそんな発想はない。あるわけがない。館長にはその点、ビジネス脳という大いなる才能があった。さすが関西人。物事に対する偏見がない。
こうして館長は東京、中央に乗り込んで来た。モチベーションは、あくまで打倒プロレスである。プロレスを打倒するにはプロレスから学ぶしかない。そこがまた館長の凄いところでもある。だってそうでしょ? Kー1は立ち技の打撃格闘技。キックボクシング。キックの中心は軽量級。しかし軽量級、中量級では世間には届かない。だからKー1はヘビー級に絞った。体がでかくないと観客に対しての説得力に欠ける。これって馬場さんがプロレスで言い続けてきたことだ。館長がまずプロレスから学んだのは、まさか馬場イズムだったとは。そこがまた面白い。
猪木からパクったのはIWGP、インターナショナル・レスリング・グランプリ。それがKー1グランプリに化けた。F1、G1に対してKー1。もう館長はいいところ取りの天才。あるいは後出しジャンケンの天才。さらにキックといえばムエタイ。関係者にとってムエタイ神話は不滅。そのムエタイにはヒジの攻撃がある。これは強烈。流血しやすい。館長はKー1からヒジあり攻撃をなしとした。禁止とした。これがまた革命的決断だった。Kー1が興行として世間一般に認知されぬ支持されるためにはヒジありは危険。エンターテインメントとしては、NOだったからだ。キックの人たちにその判断は出来ない。無理。考えもしないことだ。
Kー1の成功はヘビー級とヒジなしの2点。これに尽きる。実に単純な論理。まさしくシンプルなことに最大の真実があるという典型的な話だ。まるでコロンブスの卵。石井館長によってキックボクシングがKー1へと突然変異した。館長はビジネスマンとして現代の錬金術師でもあった。見事に打倒プロレスを実現。錬金術を完成。格闘家たちの呪いも同時に解いた。そして彼らに名声と地位をもたらした功績は絶大だ。
しかし、私はKー1もPRIDEもプロレスから生まれた新種だと思っている。いいんじゃないの? 結論はそれで。全ての道はプロレスから始まる。
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良くない部分を持ち込みましたが、
外国人偏重・日本人冷遇は想像出来ないような興奮を見せてくれたと思います。
アーツvs武蔵やペタスvs武蔵といった観客は母国の選手がただ勝てばいいと考えているのではなく、
ファイターとしてあるべき姿勢を取っている選手を望んでいるのだと。
軌道に乗ってからのk-1はプライドで言うところのヒョードルvsノゲイラのような氷の国の選手と太陽の国の対決のように、フィリォvsイグナショフのような対極かつ違う打撃系格闘技の優の対決といった、くまなく世界の強豪を集めた大会という感じがしました。
馬場手法は俺的には良いと思います。
昨今のk-1は経営的に難しいのかもしれませんが、世界一決定トーナメントで、あそこまで日本人を多くエントリーさせるのはマイナー大会っぽく見えてしまったりして嫌です
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