こんにちは。
占い師の法演です。

わたしは占いを学ぶ時に、できるだけ古い著作物を探すようにしています。
理由はいくつかあります。

ひとつは、手垢が少ないということ。
占いって意外と歴史があるので、いろいろな人の考えや気持ち、意識が少なからずくっついてる。
これは仕方ないことで、そうした積み重ねがあるからこそ厚みのあるものになったというのもある。
でも、個人的には知らない人の手垢はできるだけ付いてないのが良い。

もうひとつの理由は、言いにくいこともかなりはっきり書いてあるということ。
古いものだと、平気で「女性関係にだらしない」と書いてあるの。
今なら忖度が働いたり、気遣いがあって言葉が選ばれたりして「恋愛が活発」とか「恋愛経験が豊富になる」とか「モテる」みたいに書かれてたりする。

でも、「だらしない」のと「モテる」のは絶対に違うの。
恋愛で身を持ち崩すみたいなことが、昭和の初期以前の著作物にはけっこうはっきり書いてある。

この本質的な表現のほうが核心をついていて分かりやすい。

時代と人の手を経るにしたがって、どうしてもたくさん何かが付け足されて表現がぼやけてしまう。
付け足す人は親切のつもりだったり、そっちのほうが良いと思ったり、いろいろなのだけれど。

できるだけ「素」のものを受け取りたいなといつも思います。

「現代のものでないと、時代に合わないのでは?」と聞かれることがありますが、その時代に合わせる作業そのものが、わたしは「人の手を介して手垢が付いてる」と感じてしまうのです。

たとえば、もともとは「雷」という意味だったもの「届く」「伝える」という解釈が生まれて、そこから和歌などのメッセージのやり取りといった意味合いに派生、その後、手紙から電報という意味さえも生まれて、今では手紙と電報がすたれて、ついに令和の現代ではアプリでのメッセージを指すようになりました。
あ、そう考えると雷という電気に近づいたかもしれませんね。

でもね、手紙だからSNSのメッセージだなとか、こんなの自分で考えてあてはめたら良いんだもん。
やっぱり古い文献が好き。