BBCでは大多数の者に理解されることがなくとも、肝心の少数者に届くことを念頭に想定される類の公共性があります。わかりやすく言えば、誰かひとりでも声を上げ届けなければならないと思う重要なメッセージは、たとえ国民のほとんどが理解出来ないような内容の番組になろうとも発信し続けなければならないという責務があるということ。その意味にて日本でいう「公共性」とは意味が異なります。
「みなさまの為の番組作り」と「質の高い番組作り」はゼロサムの関係です。良質であっても数字が期待できない難解な番組は、製作者の動機を妨げ、「みなさまのための番組作り」は観た全員がわかるような作りでなければならず、結果として質の高い情報を提供することできない、そうしたジレンマが公共性の語る上での問題を困難にします。
しかし、そのようなマスメディアによる情報の集約と発信は、ある時代においては公共的であったし、同じ情報を何百万人に届けるためには合理的であり、実際選択肢も多くはなかった。しかし、時は流れ国民に必要最低限な情報が一巡すると、国民の求める「公共性」はお茶の間からスマホへ、つまり、変化の激しい社会のなかではテレビは消費者に十分な公共性を与えることができず、結果としてツイッターやブログという新たなメディアに「公共性」を見出すようになった。
進化生物学者によれば、動物や植物の進化を考えると変動期には試行錯誤とバリエーションがないと淘汰されて生き残れないといいます。実は、アリもハチの群れもよく観察してみると3~5%くらいは、無目的でランダムでノイジーな動きをしている。でもそれが天変地異、気候変動や、巣が潰されたりする危機的状況のとき、その3~5%がたまたま別の場所にいてくれるので種として生き残れるのだといいます。
結局どこの民間企業も将来が不透明な変動期にはそういうシステムを持っていないとならない。もちろん利潤を追求する商業主義は手放してはいけないし、7割とか8割とかその時代の要求にあった商業主義的なモノを作ったり、個人が統制された組織の中で振る舞うことも必要だけれども、1割とか2割くらいはバリエーションが必要なんだという話です。
もっといえば、先行くモノを追求していくこと。時代が変わり始めたときに人々がこれだって思うようなものをイメージリーダー的な形になり得るような人やモノがあるかどうかで、その後の展開が随分違ってくる。そうしたことからGoogleは20%、3Mは15%を1週間のうち個人に自由な時間として与えるのでしょう。
これはエンタープライズソーシャルでも同じことが言えそうです。もちろん全員が無駄話をしているのは問題かもしれませんが、数パーセントのランダムな動きが全体のリスクを回避し、誰かひとりでも声を上げ届けなければならないメッセージがあるとすれば、それは「公共性」があるメディアと言えるのではないでしょうか。
by 前田 直彦