明日はいまだに混同されがちな【現代メンタリズム】と【メンタルマジック】の違いについて、パフォーマンスを通して解説します。

番組中では何度も話してますが、DaiGoを売り出す際にメンタリズムという言葉を使うべきか迷った。

語感が「メンタル」をイメージさせてしまうこと。
スピリチュアルな「響き」であること。
言葉自体に人の心に残るようなキャッチーさが弱かったこと。
(当時自分のパフォーマンスに付けていた「マインドハック」の方が凄みや怖さの奥行きがあり、これも候補案に上げていた)
ネーミングだけで「中身がなんとなくわかる、説明されてる」言葉になってない。

しかし、DaiGoからの一言。
「ヤフーもグーグルも検索ワードにメンタリズムは1件も引っかからない。マインドハックはなんかよくわからないエロゲーが1件引っかかる。メンタリズムでいいんじゃないですか?」
これが決め手となって【メンタリズム】で進むことになった。

そして、いざ【メンタリズム】を掲げたショーを作る段になって立ち止まったのが、コンセプトについてだった。
いったい、この【メンタリズム】とは人に何を伝え、何を与えるものなのだろうか?
ただ人の思考を読み取り、行動を操り、誰もが不可侵だと思っている「自分」の心や意識、決定権といったものが外から容易に奪われてしまうパフォーマンスでいいのか?

たしかに、そこにはこれまでなかった「怖さ・不気味さ」のスパイスをそっと溶かし込んだ、まったく新しいジャンルにも思えた。
(そして実際、アメリカではそっちに思い切りシフトした番組がブームのさなかに作られていった)

しかし、ジンヤさんには「足りない、決定的な何かが足りない」という意識が拭えなかった。

メンタリズムを日本という、基本エンタメ精神のないガラパゴス的な島国で。
どのように提示し、どのように提案していくべきか。

そうやって、DaiGoを一番効果的に輝かせるためには・・・と考え抜いて打ち立てたのが
『アカデミズム』でした。

いや、もっと簡単にいえば「勉強って凄いぜ! 学問っておもろいんだぜ!」という裏テーマです。

とっくに人間は超能力も霊能力も再現できてしまうとこまできてるんだぞ!ということを魅せる。
この不思議さや怖さを湛えたおもしろさは神の力でも謎のパワーでも何でもない。

全て先人たちの知恵を学び。
自らの血肉になるよう実践し応用し。
既にある物事やことわりで実現する。
誰だって求め、探し、学び、得ることによって可能となる。

たとえそれが、超能力や霊能力にしか見えないものでも・・・
それが暗に伝わるようパフォーマンスを心がければ、
きっと多くの人の心に変化が起きないだろうか?
簡単ではない。でも、確実にそれは起こせる。
既にいまそれを成してる人を目の当たりにしている。

その事実が探究心を育み、やらされるのではなく自ら追い求めていく学究の徒へと
門戸を開くキッカケになるよう、【メンタリズム】パフォーマンスの構成や台本を考えてきました。

ここ最近はDaiGoから「バラエティっぽい」「アンタメすぎる」「もっともっとアカデミックに」と
全部却下されてますが、古典的なメンタリズムから最新の物まで、僕は訴求力は失ってないと思ってる。

難しさや頭の良さはどうしたってそれは鎧だから。
おもしろさや興味がいつだって一番最初の原動力のはずだから。

おもしろさと深みとアカデミズムは程よくミックスされたほうがいい。
そして、あまり完璧なパフォーマンスはしなくていい。

曖昧性と即興性も兼ね備えさせつつ、その時その時の一期一会の出会う人たち相手に。
綱渡りするような感じで見せられればいいなと思っている。



太古の昔から【奇跡】は神の手ではなく、
それを作り出せると信じ続けたハグレ者によって
それは為されている。世は常に人の力で征服される。

眉村神也