日本の国策映画はアメリカ人から見ると優れた反戦映画に見える――とルース・ベネディクトは『菊と刀』で述べている。これはアメリカ人ならずとも、いまの日本人が見ればなおさら感じることかもしれない。つまり敵愾心を煽るような作り方をしておらず、むしろ日本軍の側の苦悩や義侠心を描くので、敵が見えることはあまりない。観客に訴えるのは、命がけで恩に報いる主人公の姿である。実はそれだけで戦意高揚になることを当局はよく知っていた。

 たとえば『将軍と参謀と兵』(昭和17年制作)という映画がある。かつては中古ビデオ屋によくあったものだが、私はこれを初めて見たとき、戦時制作の映画としてはあり得ないと思ったほどである。冒頭シーンで戦死者の遺骨を抱えて帰還する兵士が映される。陰鬱なナレーションがあったようにも記憶する。あまりにも厭戦気分に満ちているので、このシーンは戦後に付け加えたものではないかという人もいる。そうだとすれば納得されるが、本当に戦後バージョンなのかどうかは不明である。御存知の方がいたら御教示願いたい。

将軍と参謀と兵の一場面
 だが、仮にその冒頭シーンを除いたとしても、描かれるのはもっぱら北支戦線での日本軍の苦戦である。支那軍の思いがけない強さに、我が軍は歯軋りしている。敵は攻撃してくるが、その姿は描かれない。憎らしい支那兵を登場させる意図が制作者にはないのである。我が軍の司令官を演じる阪東妻三郎も、終始穏やかな表情で、勇ましいことは何も言わない。部下が作戦会議で意見を戦わせる様子を黙って見守るだけである。

 無線もやられて連絡網が遮断され、日本軍は危機に陥る。そのなかで、窮余の一策が敢行される。中田弘二の演じる参謀・杉少佐が、たったひとりで馬を駆って救援を呼びに出る。敵中を突破するなかで激しい攻撃にさらされながら、自らの命を犠牲にして乾坤一擲の作戦を成功させる。援軍が訪れて、日本軍はようやく勝利する。ラストシーンで、遺体となって戻った杉少佐に兵士たちが敬礼する。さらなる進軍を前にして、司令官が静かに口を開く。

「杉も連れていくぞ」

 ベネディクトが言うように、杉少佐のような行動を描くことこそが、効果的な戦意高揚映画の文法になっている。また日本人がこれを見ると、阪東妻三郎の演じる司令官の腹芸にも感慨を深くするだろう。セリフがほとんどなく、考えをいちいち言葉にしない。ゆえにラストの一言が生きてくる。表情や呼吸だけで伝わるものがある。それはある種の曖昧さだが、果敢な行動とは矛盾しない。むしろ矛盾を解決する調整能力のあらわれである。

 よく知られるように、ベネディクトは日本人のアメージングな国民性と称して〝but also〟(しかしまた)という問題を指摘した。Aでありながら、but also、真逆のBでもあるという性質。礼儀正しいのに失礼であり、変革を好まないのに大きな変革に適応し、従順なのに統制されることを嫌う人々……。日本人が〝 truly brave〟(真に勇敢)であれば、彼らがどれだけ〝shy〟(内気)であるかを議論する必要はないはずだが、かかる逆説で語られるのが外国人による日本人論の定石である。そしてそれらは真実であるとベネディクトは言う。

 確かに思い当たる節はある。が、果たしてそうだろうかという疑問もある。矛盾に満ちているのは人間そのものであって、日本人ばかりではないことをベネディクトが見落としたわけではないと思うが、外部から眺めた日本人論は、そもそもひとつの先入観から話が出発しているようである。それは日本人が均質な民族であるという思い込みである。おそらくその誤解から、日本人の複雑性は外国人にとって理解しにくいものになっている。色眼鏡を外して、日本人の実態が雑種民族とわかれば〝but also〟は矛盾にならない。

 日本もアメリカも多民族国家であって、均質でないのは同じであるが、私たちは彼らと違って白黒を付けることを好まなかっただけである。truly brave と shy は矛盾せず、obedient でありながら big innovations に踏み込むこともあり得る。それがことさら日本人に特有とも思われない。さまざまな人間たちを抱え込むなかで、最善の判断がそのなかのひとりの勇敢な考えにあるとは限らない。内気で声を挙げないけれども優秀な人もいる。ゆえに白黒を混ぜるなかでよい方向を見出して、決まればそれを実行に移すだけのことである。

 曖昧なだけなら前途は多難に違いない。だが曖昧かつ果敢であるから矛盾を丸く治めることもできる。集団的自衛権にしても、日本は権利はあるが使えないという判断でやってきた。その曖昧さが戦略的に有効だったからである。アメリカ人は詭弁と思って苛立つかもしれないが、かつて日米同盟強化を迫られるなかでの対中協力という難しい局面において、白黒付けずにアーとかウーしか言わなかった大平正芳元総理が実は聡明だったことが思い出される。

 日本人の中庸の思考様式は、古代においては和の精神であり、中世においては鎌倉幕府の合議体制に結実している。多民族を束ねる知恵においては、曖昧さこそが真骨頂だった。日本人は長らく地方別の〝お国〟単位で過ごしてきている。国民国家を建前とした近代化の過程で国民規模の均質性を装ったことが、むしろ奇跡に近いのである。一皮剥けば、実態は不統一のままであることの説明として、いまでは県民性の違いという常套句が使われる。

 戦前に国民が一丸となって事を運べと言われたとき、その前提には国民が決して一丸ではないという了解があった。vol.30で述べたように、日本人が一丸となるというのは、多民族が力を合わせるという意味だった。例の〝一億玉砕火の玉だ〟という勇ましい標語のことである。その〝一億〟のなかには朝鮮人も台湾人も入っていたが、戦後はすっかり知らないふりをし、やがて本当に記憶から消えてしまって、精神的な鎖国に慣れてしまった。

 そこから戦後特有の偏狭さが生まれ、後期水戸学を知らずとも皇国主義と攘夷感覚が生成されて、新たなナショナリズムの温床になった、という話を聞くこともある。しかし実態は必ずしもそうではなく、いまでは懐かしい国士舘VS朝鮮学校のミニチュア版のような出し物が、一部の人に人気があるというだけだろう。いまの子供の目にはそういう漫画が新鮮に映るのかもしれないが、戦前のナショナリズムは偏狭どころか多民族の協和と領土の拡張を前提としていた。したがって、一国民族主義ではなく、むしろグローバリズムの産物だった。

 戦前の拡張主義のあやうさは、内外で起きた異民族抗争にあらわれた。1937年(昭和12年)に北京に近い通州で、中国部隊が日本人住民を大量殺戮した事件はその最たるものだった。女性に至るまでが酷い殺され方をした通州事件である。まったくメンタリティの違う民族が協和することの不可能性をこの惨劇は物語る。誰もが気付いていたことではあるが、日本人は近隣の民族とは似ていない。日本人の感覚で「まさかそこまではやらないだろう」ということを、近隣の民族はやる。そして日本人なら我慢するであろうことも、近隣の民族は我慢しない。この違いはいったい何かということが、実は当初から民族学のモチーフだった。