客人神-まろうど神-の秘密
  ――日本人の神話的原型というフィクション


 映画というのは恐ろしいものだと生前に高倉健はインタビューで述べていた。自分の演じる映画のなかのキャラクターに観客が酔う様を見て、フィクションというのはかくも人に影響を与えるものかと驚いたという話である。それは東映の任侠ものがヒットした頃の話であるが、1960年代の高倉健が延々と演じていた姿というのは、要は客人神(まろうどしん)をめぐる同じパターンの物語である。それが有無を言わせずに観客の心底に響いていた。

 制作側の背景としては、映画の威力を政治利用していたのである。真相は常に身もふたもない話になるのだが、私たち観客の側が商業的な背景を気にするような映画というのは、フィクションとしての中身が失敗しているわけである。演技がうまいだとかへただとか、あの映画一本でギャラがどうだとか、そういう次元でお喋りされる映画に意味はない。私たちは理屈抜きに『昭和残侠伝』の道行きのシーンに心底を揺さぶられた。我慢に我慢を重ねたあげくに、ついに怒って人を殺しにいくというより、静かに死にに行く男の姿に酔ったのである。

 なぜこの同じパターンがくりかえされる映画がいつまでも鑑賞に耐えるのか。