• このエントリーをはてなブックマークに追加

  • 小説『神神化身』第二部 二十四話  「仰望ディフューズ」

    2021-10-22 19:00
    Twitter公式アカウント(@kamigami_keshin)にて連載中の小説『神神化身』本文アーカイブです。


    小説『神神化身』第二部 
    第二十四話

    仰望ディフューズ


      拝島去記は九尾の狐だ。少なくとも、藤々木美羽の中ではそういうことになっている。
     美羽が去記のことを知ったのは、人伝の噂話だった。自称・九尾の狐が廃神社に住んでいるらしい、そして何やら話を聞いてくれるらしい、と。いくらなんでもよく分からない。九尾の狐がいる? 上野國だから? 確かそんな伝承があったはずだ。それにしても、この現代に九尾の狐とは。
     けれど、美羽は行った。九尾の狐の住んでいる廃神社はやたらアクセスの悪いところにあって、車でなければ行きづらかったというのに。もし九尾の狐がいるのなら、現世で苦しんでいる人間のことを、笑い飛ばしてくれるんじゃないかと思ったのだ。
     美羽の期待はある意味では報われて、ある意味では裏切られた。
     九尾の狐は本当にいた。正直、最初は作り物の耳と尻尾を付けた人間にしか見えなかったけれど、話していくうちにそうではないのだと分かった。彼は正しく九尾の狐だった。
     美羽は今悩んでいることのいくつかを、促されるがままに語って聞かせた。裏切られたのはここからだ。九尾の狐は人の子の悩みを笑い飛ばしてはくれなかった。ただ寄り添い、励ましてくれた。
     それ以来、拝島去記の存在は美羽の支えだった。同じように支えにしている人間が沢山いるのも知っている。何しろ彼は、上野國の九尾の狐なのだ。
     その拝島去記が、面白い物を観せてくれると言った。
     正確に言えば、浮世を忘れさせてくれるものだと言っていた。
    「興味がある人の子は、誘い合わせて来るがよい。待っているぞ」
     そう言われれば、抗うことなんて出来なかった。たとえ幽世に連れて行かれるとしても、美羽は狐の誘いに乗っただろう。
     そうして美羽は、まんまと友人を誘い、指定された日時に廃神社へと向かった。
     この日は特に人手が多く、通された古びた舞台の前は人でいっぱいだった。美羽は不安と期待の入り混じった視線で、少し高い位置の舞台を仰ぎ見る。
     やがて小さな鐘の音が鳴り響き、舞台に三人の人物が現れた。洒落た装束に身を包み、手には長刀のようなものを持っている。三人の内、中央にいる去記だけが顔を晒しており、残りの二人は、狐の面を付けていた。すらっとしていて足の長い青年と、小柄な少年だ。ややあって、小柄な方が、凜とした声で言った。
    「我ら上野國水鵠衆。どうぞ御覧じあれ」
     上野國水鵠衆、と美羽は心の中で復唱する。最初は頭の中で上手く変換出来なかった。この響き自体は聞き覚えがあるというのに。
     少し遅れて、舞奏だ、と気づく。上野國に住んでいる以上、その存在を知らないとは言えない。だが、上野國には伝統だけが残っており、舞奏衆自体は組まれていないはずだ。けれど、彼らは自分達をそう名乗った。
     彼らは──拝島去記は、覡なのだろうか?
     そう疑問に思った瞬間、彼らが動き出す。
     後ろで鳴っている音楽に合わせて、彼らは流れるように動いた。寄せては返す波のように、どこを捉えていいか分からない動きだ。何を見せられているのか分からないけれど、彼らが動いているだけで楽しい。
     全然関係が無いはずなのに、美羽は小さい頃水遊びをした時のことを思い出した。光を反射して水が跳ねるのを見るだけで楽しかったのだ。
     最初に中央にいたのは拝島去記だったのに、今や舞の中心にいるのはあの小柄な狐面の少年だ。見えない水の流れが彼を中心にして湧き出しているかのように、他の二人が彼を立てている。
     とはいえ、少年だけが目立っているわけではない。控えている者の為に一歩前へと進み出る人間が、目立たないはずがない。長刀が舞に合わせて大きく振られる。切り開いている、と美羽は思った。
     水鵠衆にはどこか向かうべき場所があって、彼らはそこに一心に向かっている。求めるものの為に、戦っている。
     九尾の狐は、耳と尻尾を付けてはいたけれど、いつものコンタクトレンズは外していた。特別な時に、求められた時にだけ見せる赤い方の目だ。美羽は一度もそれを見たいと言ったことはない。何故、去記はその赤を晒しているのだろう。あまり見せることが好きではなかったような気がするのに。
     それでも、拝島去記は満たされているように見えた。ああ、彼がやりたかったのはこれなのかもしれない、と思うと何だか涙が出そうだった。九尾の狐で在り続けたのは、この為だったのかもしれない、と。
     そうして舞奏が終わった瞬間、拝島去記は朗々と言った。
    「人の子らよ! 我らの威光を伝え聞かせよ! 我ら、上野國水鵠衆! 上野國の誉れ高き舞奏衆よ!」
     それを求めるなら、望むならば伝えよう。自分一人の声がどこまで届くかは分からないけれど、九尾の狐の居る舞奏衆について語って聞かせよう。
     これは、広く目に触れるべきものだ。藤々木美羽はそう思う。

     *

    「えー、どうする去記? シンプルすぎるメニューだから余計に迷うよ。たぬきうどんかなぁ」
    「うーん、我はうどんが好きだから、ちょっとうどんにはうるさいところがあるぞ。どれにしようかなぁ」
    「迷っちゃうね。阿城木のおすすめなんだから、まあきっと間違いないんだろうけど」
    「お前らもうちょっと静かにしろ。声が張るから目立つんだよ」
     阿城木はうんざりした顔で注意する。まるで引率の保育士になった気分だ。
     小さくてうるさい何かと、大きくて耳のついた何かをうどん屋に連れてくる日が来るとは思わなかった、と阿城木は思う。隅のテーブル席に通されたというのに異常に目立つ。客も何人かこちらを見ている気がするというか、見ている。
     こんなことなら家に戻れば良かったとも思ったが、ここのうどんは阿城木のお気に入りだし、勝手に執り行っている『舞奏披』には手応えがあった。ここでささやかに寿ぐことくらい許されるだろう。
     ただ、せめて目立たないようにしてほしいし、耳も外してほしい。
    「我この『うまかうどん』っていうのにするー! あったかいおうどん大好き! たぬきも気になるところではあるが……」
    「前から思ってたけど、お前狐なのに油揚げ食べねえしきつねうどんも食べないよな。ここたぬきしか無えけど、せめてそっちにしろよ。動物で繋げろ」
    「ええ、だって我もこの一番人気のうどん食べたいんだもん」
     拝島が絶妙な具合で頬を膨らませる。それを見て、阿城木はもう拝島を九尾の狐の方向に誘導するのは難しいのではないか……とすら思い始めてきていた。
    「んー……冷やし……いや、僕もあったかいものがいいな。うまかうどんで」
    「うまかうどん三つな」
     店員を呼び、注文をする。馴染みのバイトではあったが、なんだか見てはいけないものを見た、と言わんばかりに目を逸らされてしまった。
     こうして自分は徐々に地域の信頼のようなものを失っていくのだろうか……と思うが、狐とネズミを連れているだけで白い目で見られるのは自分の人徳が足りない故かもしれないとも思う。例えば阿城木崇であれば、九尾の狐とハムスターを連れていても威厳を保てるはずなのだ。
    「……なんか悪いな。俺がカバーしきれなくて」
    「は? どういう流れかよく分かんないけど、なんか馬鹿にされてる気がする」
    「気にすることはないぞ入彦。我は不甲斐ない入彦のことも大好きであるからな」
     なんだかそれはそれで引っかかる言い方だが、一応「ありがとな……」と言っておく。
    「それはさておき、なかなか悪くないんじゃない? あの感触だと、水鵠衆のことをそれとなく色々な人に伝えてくれるだろうし。実際もう噂にはなっているようだし」
     七生が急にリーダーの顔になり、やや得意げに言う。それを聞きながら、阿城木は七生の『計画』について思い返した。

    「まず、僕らはゲリラ的に舞奏披をする。そうして水鵠衆についての話を水面下で広めて、月末の舞奏披に来させる。その上で、阿城木の舞奏披の時に僕ら三人が舞台に出て、舞奏を披露してしまう。観囃子は伝統よりも目の前にいる僕らに歓心を向けてくれるだろうし。ていうかちゃんと承認されてる舞奏衆かどうかなんてその場じゃ分かんないし! それで拍手喝采大団円、おしまい!」
     七生が早口で打ち出したのはそういう計画だった。ごくシンプルなものだし、それで上手くいくようなら言うことがない。上手くいくのなら、だ。
    「そんなんで上手くいくのかよ……」
    「な! 僕の計画に何か文句があるの? むしろ計画を立ててあげたことに感謝してよね!」
    「我は千慧の計画いいと思うぞ! 千慧はいつも賢くてかわいいからな!」
    「おい拝島。そうやって甘やかしてっと七生がろくな大人にならねえぞ」
    「僕はもういい大人なんだけど!!」
     七生がきゃんきゃんと喚くが、不安は拭えなかった。そもそも観囃子からの歓心が得られるかは分からないし、興味を持ってくれた観囃子が月末の舞奏披に来てくれるかも怪しい。そして、実際の舞台で喝采よりも戸惑いが大きかったら? その後、自分達はどうなってしまうのか。
    「……でも、それでやるしかねえよな」
     様々な不安を抱えながらも、阿城木は堪えて言った。七生がハッとこちらを見てくる。
     恐らく、一番不安なのは七生だ。ここで阿城木まで不安そうな様子を見せれば、七生はますます空元気を出そうとするだろう。そうはなってほしくない。虚勢を張るべきなのは自分だ。
    「にしても、最初の一歩をどうするかだけどな。何しろ俺らには場所も無えし、流石に俺ん家の稽古場でやるわけにもいかねえだろ。それに、この誰も俺らを知らない状況で最初の一歩としての観囃子を集めねえとだし」
    「それならば、呼び水には困るまい」
     拝島がにんまりと笑う。
    「我の元には迷える人の子が沢山来るからの。面白い出し物があると教えてやれば、仰ぎ見に来る子らも多かろう。そうして我らに魅入らせてやればよい。水鵠衆に沈ませるのだ」
    「……なるほど、そういう……」
    「水鵠衆にめろめろにさせるのだ」
    「何で言い直した?」
    「最初の一歩で去記のところに集まる人達に観てもらうっていうのはいいと思う」
     七生も訳知り顔で頷く。いきなり出てきた案ではあるが、確かに悪くは無さそうだ。最初の数人さえいれば、後は何とかなるかもしれない。
    「去記は自分の所に来る人達に舞奏を見せたことはないの?」
    「それを願われたことはないからの。それに──」
     拝島が困ったように笑う。
    「拝島に舞奏を求めるような人間はおるまいよ」
    「なら、これから飽きるまで求めさせればいい」
     間髪入れずに七生が言った。
    「それくらいの力が僕らの舞奏にはある。きっと、水鵠衆の舞奏をみんなが好きになる。カミに愛されなくても、他の誰かが愛してくれる」
     七生の言葉は力強く、揺るぎない。しっかりと拝島のことを照らし導こうとしている。そういう時、小柄なはずの七生は一回りほど大きくなったようにも見えるから不思議だ。煌々と灯り、旅人を導く北斗七星の光。
    「阿城木だってその自信があるんだよね?」
    「そうじゃなきゃやんねーよ、こんなこと」
    「オーケイ。それでこそ」
     水鵠衆のリーダーが誇らしげに笑った。
    「じゃあ、まずは拝島が廃神社で人を集めりゃいいのか? そこを任せることにはなるけど……ていうかあそこって舞奏出来るくらいの場所あんの?」
    「おお、この九尾の狐に任せるがよい。我の居城は少し古いが、舞台もあるぞ。かつてはそこで誰かが舞っていたのやもしれぬな」
    「すごいすごい! 完璧だよ」
    「ふふん、もっと褒めてくれてもよいのだぞ」
     

    「おまたせしました、うまかうどん三つです」
     そうこうしているうちに、ざるに載った太いうどんがつけ汁と共に運ばれてくる。この濃いめのつけ汁にうどんを付けて、一気に頂くのが美味いのだ。
     予想以上にしっかりした麺だったからか、七生も拝島も目を丸くしている。その反応を引き出せた時点で、阿城木が勝ったようなものだ。一口食べてみればもっと驚くだろう。
    「ほら、冷めねーうちに食べようぜ」
    「それじゃあ、いただきまーす」
    「我のしっぽみたいなうどんだな」
     拝島がそう言いながら、恐る恐るうどんを汁に付ける。まるでうどんが跳ねて噛みついてくるんじゃないかと言わんばかりの様子だ。そうしてゆっくりとうどんが口に運ばれていく。案外上手く啜れていないのは、不器用だからだろうか。見守っているこちらがハラハラしてしまう。ややあって、拝島が言った。
    「おいしい!」
    「そうか、そりゃ良かった」
    「これはおいしいものだな、千慧!」
    「うん、そうだね」
     七生も嬉しそうに言って、うどんを啜っている。こちらはなかなか上手だ。やはり食べることに関しては強いのだろうか。すごい勢いでうどんを口の中に収めていく。
    「お前あっつくねーのかよ。火傷すんぞ」
    「この熱さを楽しんでるの──っちゃ! う……」
     言わんこっちゃない。口から間抜けに舌を出している七生に対し、阿城木はニヤニヤしながら言った。
    「この熱さを楽しんでる通な七生くん、お冷やはいるか?」
    「……いる……」
     七生にお冷やを渡してから、阿城木もようやくうどんに箸を付ける。相変わらず美味い。しっかり噛んで歯ごたえを楽しんでいると、向かいの七生と拝島も同じように延々と咀嚼しているので、少し笑ってしまう。ここで息を合わせる必要なんてないのに。
     これを幸せの箱の中に入れてしまうのは、なんだか短絡的で恥ずかしい気もする。自分達はこれからが正念場だというのに。だから、「なんかいいな」も「また連れてきてやるよ」も言わずに、黙ってうどんを啜った。


    「こうしてみんなで食べるのはいいことだな」
     ……なんてことを内心で考えていた阿城木のことを全く知らずに、拝島はそう言った。
    「ね、幸せだったね。お腹いっぱいだしね」
     食後のお茶をちびちびと飲みながら、七生も応じる。さっきの火傷が尾を引いているのか、今度は慎重になっているようだ。
    「ううん。そうかもしれぬな。我、こういうのあんまり無かったから」
    「こういうの?」
    「誰かと食事を共にすることだ」
     また、阿城木の心がじくりと痛む。別に拝島が悪いわけではないのだが、彼がそういう発言をする度に、何とかしてやれないかと思ってしまう。
     にこにこと笑う拝島去記の右目からは相変わらずコンタクトが取り払われ、化身が赤く光っていた。その比類無き輝きの方が、耳よりも注目を集めているのではないかと思うくらいだ。
     その目も、いい呼び水になるだろう。廃神社には辿り着かない人々も、水鵠衆には化身持ちが──伝え聞く呪われたノノウの末裔がいると聞けば、月末の舞奏披に現れるに違いない。真偽のほどがどうであれ、確かめずにはいられないからだ。
     阿城木は自分達の舞奏に自信を持っている。──誇りを持っている。化身にこだわる人間の目にこそ適うものが見せられると思っている。だから、そういった人間を実力で黙らせてやりたい。
     ……その上で、やはり阿城木入彦には化身が無いから、実力面でも劣る、と見做されてしまったら。そう思うと、身が竦むけれど。
    「いいの? 阿城木」
     七生が不意に言ったことで、阿城木の意識が引き戻される。
    「阿城木さあ、……上野國の舞奏社の人と仲良いんでしょ。気まずかったりしないの」
    「あ?」
    「水鵠衆のことが話題になったら、きっと舞奏社の人もあれこれ言ってくるんじゃない? 阿城木は関係してないのか、とか……あとは、隠し通せても月末の舞奏披に乱入したら、どのみちだし……」
    「それもまあ、今更だろ。とっくに覚悟は決まってるっての」
     そもそも、阿城木は何も失って困るものがないのだ。一番大切なものは元から阿城木の手には無い。社人からの信頼は失うかもしれないが、それに何の価値があるだろう? ノノウとして舞えなくなっても、手足を捥がれるわけじゃない。
    「ていうか、勝手に舞奏披やって思ったんだよな。別に覡になって舞奏競に出られなくても、舞奏が出来なくなるわけじゃない」
     自然と言葉が口を衝いて出た。舞奏社に認められなくても──正式な覡にならなくてもいい、なんて、以前の阿城木なら絶対に言わなかっただろう。
     変えたのは廃神社での経験だ。
     乱反射する観客の──観囃子の、視線を感じながら、水鵠衆として舞奏を披露することがあんなに幸せだとは思わなかった。ノノウの阿城木入彦としては何度もやったことがあるというのに、それと今回では全く違う。
     覡だ。今の阿城木は覡だった。誰が認めなくても、疑いようなく覡なのだ。
    「舞奏を求める観囃子が、一番の舞奏衆を俺らだって定めたら俺らの勝ちだろ。舞奏社に認められたちゃんとした舞奏衆の奴らがどうあろうともな。だから、心配ねえよ」
     七生を安心させるかのように、阿城木は言う。だから、失敗は怖くない。この心意気は七生も肯定してくれるだろう。阿城木は何となくそう思っていた。
     だが、七生の表情はいつもよりずっと強ばっていた。あれ、と阿城木は間の抜けたことを思う。お前って、こういうタイプの負けん気がある奴じゃなかったっけ? いや、七生の基本的な性格は変わっていない。こいつは芯の強い奴だ。だったら、それ以外に肯定出来ない理由が──……
    「うん。確かにそうだね。……そのくらいの気持ちでいた方がいいよ」
     ──……大祝宴にこだわらなくてはいけない理由があるんじゃないのか?
    「だが、カミに相見えるには大祝宴に辿り着かなければならぬのだろう? ならば、やはりそこを目指さぬとな」
     阿城木が何かを言うより先に、拝島がそう言った。
    「お前、カミに会いたいとかお願い叶えてもらいたいとかあるのか?」
    「ふふふ、カミは我になど会いたくはないと思うのだがな」
    「そうだよ。去記は一回くらい会って文句を言わないと!」
    「けれど、この目がなければ我は水鵠衆に入れてもらえぬところだったものな。難しいものよ」
     拝島が右目の辺りにそっと指をやる。
    「けれど、種は撒かれた。きっとよく育つであろう。遠くまで届くはずだ。我らの光は、こんなものではないのだから」
     拝島がそう続ける。
     阿城木の方も、ご先祖に祈りたい気持ちになった。どうか、水鵠衆が静かに広がっていきますように。歓心が自分達の力になってくれますように。期待してくれ、と今度は観囃子に向かって言う。
     水鵠衆はここにいる。俺達は、きっと認められてみせる。








    著:斜線堂有紀

    この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。





    当ブロマガの内容、テキスト、画像等の無断転載を固く禁じます。
    Unauthorized copying and replication of the contents of this blog, text and images are strictly prohibited.

    ©神神化身/ⅡⅤ

  • 小説『神神化身』第二部 二十三話  「櫛魂衆・闇夜衆合同稽古 前夜」

    2021-10-22 19:00
    Twitter公式アカウント(@kamigami_keshin)にて連載中の小説『神神化身』本文アーカイブです。


    小説『神神化身』第二部 
    第二十三話

    櫛魂衆・闇夜衆合同稽古 前夜


      六原三言は、あまり夢を見なかった。
     三言にとって睡眠とはルーチンワークの一部でしかなく、夜になったら目を閉じ、朝になったら覚醒する。その程度のものだった。
     記憶喪失になったばかりの頃は、昔の記憶を夢で見る可能性について話をされたこともあった。けれど、むしろその時期の方が夢を見ることが少なかったように思う。三言にとっての眠りとは、ただ体力を回復する為のものだ。
     それが、最近変わった。
     相変わらず頻度は少なかったが、三言は以前よりも夢を見るようになった。内容の大半は朝日と共に消えてしまうものだったけれど、瞼の裏に、頭の隅に、残る欠片もあった。
     夢の中の三言は心細く、涙を流している。自分の元から誰かが去ってしまったからだ。自分にはもうどうすることも出来ず、不安の渦の中から動けない。どうしてこんな気持ちになるのか分からなかった。何かとても大切なものを失ってしまったのに、空いた穴が何の形か分からない。
     けれど、そんな三言を助けてくれようとする人がいるのだ。
     それで三言が救われるのかは分からない。何しろ、三言は何を失ったのかも分からない。けれど、三言を助けようとしてくれるその気持ちが──祈りが、心を少しだけ軽くしてくれる。
     総じて悲しい夢だと思うのに、目覚めた後の気分は不思議と悪くない。三言はいつものように布団を出て、小平の待つ全力食堂に向かう。

     今日の朝食は目玉焼きとベーコンとしらすを食パンに載せた、全力食堂特製トーストだった。しらすはアンチョビのように塩辛く味付けてあり、パンに合う。お代わりをすべくトースターに二枚目の食パンをセットしていると、不意に小平から声を掛けられた。
    「今日は何だかご機嫌だな! いいことだ!」
    「そう見えますか? だったら嬉しいです!」
    「なんか良い夢でも見たか? 大漁の夢とかな!」
     そう言って、小平が豪快に笑う。少し悩んでから、三言はゆっくりと口を開いた。
    「いい夢かは分からないんですけど……悪くない夢を見ました」
    「おお? お前もなかなか哲学的なことを言うな。いいぞ、全力で」
    「俺は悲しい気持ちだったんですけど、なんだかフッと楽になる気持ちもあって……結果的に、悪くなかったです」
     上手く説明出来ているとは言い難かったが、少なくとも伝えたいところは伝えられたはずだ。小平は三言の言葉に真剣な表情で頷いている。
    「悪くないってのはいいことだ。お前はいい夢を見たぞ、三言」
    「そうなのかもしれません」
    「お前、お医者にかかった時に、夢を記録しろって言われたりしてただろ。ほら、回復のきっかけがうんたらかんたらで」
    「そうですね。結局、俺が何の夢も見なかったから、記録も何もありませんでしたし……」
    「書けるもんが出来てよかった。ポイントカードと一緒だろ。何にせよ増えてくってのはいい。よっし、今夜は鍋にするか。海老もたんまり入れてな」
    「本当ですか!」
     思わず声が大きくなってしまう。少し子供っぽいかもしれないが、海老鍋ではしゃがないのは、海老にも小平さんにも失礼だ、と三言は思う。すると、小平は一層嬉しそうな顔をして「その顔もいいぞ。お前は櫛魂衆になってから更にいい顔するようになった」と言った。
    「そうだ。お前ら、今度闇夜衆と舞奏披するんだろ?」
    「はい。合同舞奏披ですね。相模國からは少し離れた社になりますが……」
     他衆と合同舞奏披をする際は、二衆の所属する社とは全く関係の無い舞奏社で行うことになっている。三言も初めて行くところで、遠足のようだな、と少しだけ思った。
    「それもまたいい。昨日の敵は今日の友ってわけだ。舞奏ってのはいいもんだな」
    「そうですね……。闇夜衆の皆さんとも、少しは仲良くなれた気がしますし。……友達、と呼んで頂けるかは分かりませんが。でも、三人とも素晴らしい覡ですから、俺はもっと仲良くなりたいです!」
     元気に言うと、三言は闇夜衆の三人のことを思い出した。圧倒的な存在感を持ち、目の離せない舞奏をする萬燈夜帳。今までに無いような華麗な動きで見ているものを魅了する昏見有貴。そして、──その目に強い決意を宿し、願いの為に魂を懸けて舞う皋所縁。
     他の二人に会えるのも勿論嬉しかったが、三言は何よりも皋所縁に会えるのが楽しみだった。三言は皋の舞奏が好きだが、舞台を下りた後の、うって変わって不器用そうな彼そのものも好きだった。皋と会うと、三言はなんだか不思議な気持ちになるのだ。
     今回の舞奏披では、もう少し皋と仲良くなりたい。そんなことを考えているうちに、トースターから食パンがポンと飛び出してきた。

    「ううううう、連日お天気はよろしいのにわたくしの気持ちは曇天ですことよ。あーあー、ねえー合同稽古の日が雨だったら雨天延期だったりしないの? ほら、遠流とか萬燈先生とか業界人じゃん。ギョーカイでお仕事しなきゃなのに、風邪引いたら大変だよぉ? 雨降ったら延期しよぉよー」
    「大丈夫だ比鷺! 合同稽古は舞奏社の中で行われるから天気は関係無いし、週末のお天気は晴れだそうだ!」
    「僕はちゃんと体調管理してるから風邪は引かない。萬燈夜帳の方は知らないけど、あの人に挑まきゃならない風邪菌が可哀想だから引かなそう」
    「ぐぐぐ、三言の晴れやかなお言葉と、遠流の斜め上の方向に飛んでく反論がダブルパンチですわぁ」
     三言がこんなに楽しみにしているというのに、比鷺は相変わらず元気が無かった。折角、久しぶりに稽古場じゃなくて比鷺の家に集まっているというのに、週末に合同稽古があるという事実が全てを打ち消してしまっているらしい。最初は悲しかったが、比鷺がこうして駄々をこねることも何だか楽しい。こういうのを様式美、というのだと、三言は比鷺から学んだのだ。
    「合同稽古はきっと行ったら楽しいぞ。比鷺も帰りたくなくなるかもしれない」
    「流石にそれは無さすぎる。も、俺ヤだからね。稽古中の俺はもう皋さんとしか絡まないから。あの人なら俺に負担掛けてこないもん。何か他二人がアレすぎて、皋さんからマイナスイオン感じるくらい。実質空気清浄機」
    「それは困ったな……俺も皋さんと話したいんだが」
    「えっ! 何その積極性!」
    「可哀想にな。こうなる前にもっと態度を改めるべきだったが……」
    「ちょっ遠流!? 何で俺が捨てられたみたいな顔すんの!?」
    「比鷺を捨てるつもりはないが……楽しみじゃないか? あんなに凄い覡達と一緒に稽古出来るなんて」
     三言は笑顔で言ったが、遠流も比鷺も微妙な顔をしている。比鷺に至っては大きな溜息を吐いた。
    「まあ、萬燈先生は褒めてもくれるからちょっとそこがアドなんだけど、昏見さんは一方的にこっちを速射してくるからさぁ……」
    「あの人は訳が分からなすぎて恐怖を覚える」と、遠流も苦々しげに言う。どうやら、二人とも昏見が苦手なようだ、と三言は悲しい気持ちになった。
    「あーあ、俺も髪の毛結んでローポニテっぽくして行こうかな。そしたら昏見さん、めちゃくちゃ優しくしてくれるかも」
    「お前がそんなことしたら、むしろ逆鱗に触れそうだけど」
    「よく分からないが、比鷺が髪を括るのはいいと思うぞ。似合いそうだ」
    「んへへ、ありがとー。でもなあ……髪纏めちゃうと……」
     無意識なのか、比鷺がそっとうなじに触れる。そこは、化身(けしん)があるところだ。見せたらいいじゃないか、と以前の三言なら言っていたと思う。けれど、何だか今はそれを言うのが躊躇われた。比鷺の化身はとても綺麗で、色んな人に見てもらいたいのに。
     自分に何か変化があったような気がするが、三言には自分の中に起きた変化が上手く説明出来ないのだ。
     その時、スマートフォンが鳴った。どこか上品なピアノの音は、遠流の──それも、仕事用のものだ。
    「あ、ごめん。少し出てくる」
    「またぁ? 遠流、最近ちょっと忙しくない?」
    「黙れ。……ライブ断ってる分、ちゃんと販促とかそういうのには協力しないと……」
     そう言うと、遠流はベランダへと出て行ってしまった。
     遠流は最近、アイドルの仕事を断り始めている。
     合同舞奏披を控えて、覡としての役割に集中したいというのが理由だ。その分稽古によく顔を出してくれるようになっているので、櫛魂衆の六原三言としては嬉しい。けれど、八谷戸遠流のファンとしての六原三言は……すごく寂しいような気がしている。
    「遠流、なんか忙しそうだよね。悪い意味で」
    「悪い意味で? ってどういうことだ?」
    「うーん。あいつ、忙しかったりしても、自分が決めたことだったらやる奴だもん。そんでキャパオーバーになったりもするけどさ……でも、今はちょっと……悩んでるっぽいから。悪い意味」
     比鷺はとても賢いし、色々なことによく気がつく。三言には見えていないものが沢山見えているのだろう。
    「……いい意味になるといいな」
    「あ、三言がそんな顔しなくていいから! だーいじょうぶ、何とかなるよ。何だかんだ、合同稽古まで行ったらさ、吹っ切れて遠流も元気になるかもだし」
     ね、と比鷺が言う。
    「そうだといいな」
     闇夜衆との合同稽古が──ひいては合同舞奏披が、遠流の抱えている何かを、少しだけ軽くしてくれないだろうか。三言はそっと、宛先も無く祈る。

     *

     クレプスクルムのカウンターに着き、萬燈夜帳と話している皋所縁は、初めてこの店に来た時とは比べものにならないくらい柔らかい表情を浮かべている。かつての昏見が見ていた表情といえば、求められるがままに探偵として振る舞っていた時の大袈裟なくらい不敵な表情か、救いの届かないこの世を嘆く苦しげな表情かだった。そう思うと、今の皋は本当にいい方向に変わった。昏見がそれを理想と据えられるくらいに。もし昏見がもっと謙虚で慎み深かったら、このままでいいと思ってしまう程に。
     生憎と昏見有貴はカミをも恐れぬ貪欲さを持っている人間なので、それを許す気など無いのだが。
     そんなことを考えていると、萬燈がちらりとこちらを見た。彼の口の端が悪戯を思いついた子供のように上がる。
    「どうした? 妬いてるか昏見」
    「やだなあ、妬きませんよ。誰と舞おうが、どんなに失格しようがかまわぬ。最後にこの昏見有貴が華麗に奪い返せばハッピーエンドのオールオッケー」
    「俺が構うんだけどなぁー。てか、萬燈さんも妙な絡み方すんなよ……面倒臭くなるだろ……」
    「でも、お店に来るなり萬燈先生と話し込んでファーストオーダーすらくれないのは、クレプスクルムのマスターとしても傷ついちゃいます」
     試しに悲しそうな声を出してみると、皋はあからさまに動揺した顔を見せた。いつもとは違う方面から攻められたことで、ちょっと罪悪感を抱いたのだろう。その様は素直で大変よろしい。内心でほくそ笑まれていることも知らず、皋は気まずそうに言った。
    「それは確かに……俺が失礼だったかもな……じゃあ、その……なんか……俺も頼む……」
    「あら! それは大変嬉しいですね。じゃあどうします? 今ご用意出来るものですと、フランスロレーヌ地方産ミネラルウォーターの水道水割か、もしくはスピリタスになりますが……」
    「なんで両極端の二つをチョイスするんだよ。どう考えても最初の一杯で度数九六度の酒は飲まねえだろ。ミネラルウォーターを水道水で割んな」
    「おお、流れるように三つも頂きましたー! ときめきますね! じゃあ六甲のおいしい水も一匙混ぜてあげちゃいます! いやあ、所縁くんってばグルメな上に欲しがりさんですね!」
    「わっかんねえよその隠し味! はぁ……萬燈さんは何飲んでんの?」
    「グレンスコシアビクトリアーナだ。美味いぞ」
    「あー、ウイスキーか……まあ無理だわ。萬燈さんなら絶対度数高いやつだろうし」
    「私達の前では酔ってもいいんじゃないですか」
     揺さぶりを掛ける意味で、そう言ってみる。すると、皋があからさまに動揺した顔を見せた。
     皋はアルコールの入ったものを人前で飲まない。一見ただの下戸であるかのように見えるが、それは彼の引いた一線であり、呪いの一種でもある。自分の意識が少しでも朦朧とすれば、大切なものを見逃してしまうかもしれない……という麗しき強迫観念。
     もう探偵じゃないと言っている癖に、皋は自分が酔うことを許さない。瞬きの間に世界が変わってしまうことの恐ろしさを、皋は未だ忘れられないでいる。昏見が皋の夜を肩代わりしてくれることなんて、まるで期待していない。
     だからこそ、それを無理矢理にでも打ち砕いてやりたい気もしてしまう。人間は酒を楽しむことが出来る生き物なのに。
     とはいえ、ここでわざわざ詰めることはしなくていいだろう。昏見はいつもの笑顔を作ると、明るい声で言った。
    「なんてね」
    「……なんだよお前」
    「なんてね」
    「イントネーションを変えて言い直すな。それはやめろ」
     皋の顔が無事に曇るのを見届けてから、昏見は冷蔵庫で冷やしていたジャスミンティーをグラスに注ぐ。いつかの日に、皋が実際に下戸であることを確認するのも一興だろう。
     もし、全部が終わった後に、自分と皋が共に酒を飲む間柄になれていたら、の話だが。
    「はいどうぞ、所縁くん」
    「……どーも。何これ?」
    「ふふふ、当ててみてください」
    「え、……ジャスミンティー? じゃないな。……どうせジャスミンティーのジャスミンティー割とか言うんだろ」
    「えっ、所縁くんってばどうしちゃったんですか!? ジャスミンティーをジャスミンティーで割ったらそれはジャスミンティーじゃないですか!? なんでそんな回りくどい表現を!? まさかお疲れですか!?」
    「こいつ殴りてえ~」
     言いながらも、皋は大人しくジャスミンティーを飲んでいる。ジャスミンティーは副交感神経の活動を高めて飲んだ人間をリラックスさせる効果があるので、生まれてこの方眉間の皺が取れたことがなく、地元では『顔にフィヤオラルグフュール渓谷を持つ男』として名を馳せている皋にも効くはずだ。
     そうして皋で遊んでいると、萬燈が何やらグラスを見ながら思わしげな表情を浮かべていた。最初はお代わりでも欲しがっているのかと思ったが、そうではないらしい。
     最近、萬燈の様子がおかしいことには気がついていた。前々から掴み所のない天才だとは思っていたが、近頃は更にそれが加速している。萬燈を変えただろうもので大きなものといえば──やはり、櫛魂衆との舞奏競だろうか。
     これが原因で変化を見せただろう彼は、更に櫛魂衆との合同舞奏披を控えている。──これが影響を及ぼしていないとは思えない。試しに、その辺りを突いてみることにする。
    「そういえば、萬燈先生は櫛魂衆大好き小説家として名を馳せていますから、強敵と相見える機会は嬉しくてたまらないのでは? うーん、コロッセウムの精神を感じますね」
    「萬燈さんをグラディエーターみたいに言うなよ」
    「まあ、楽しみではあるわな」
     萬燈は特に表情を変えることなく、涼やかに言った。それでいて、彼が本当に楽しみにしていることは伝わってくるのだからずるい。萬燈夜帳に好感を持たない方が難しいのだから。
    「んなこと言うなら、皋も昏見も楽しみだろう」
    「はい! 勿論ですとも! 私は櫛魂衆が好きすぎて毎日『櫛魂衆』って文字を一〇〇〇回写経して過ごしていますからね」
    「俺は正直そうでもないっていうか……。舞奏競の時も大変だったのに、もう一度あいつらと舞奏すんの大変すぎだろ。俺さ、六原と会うとなんか眩しさで目潰れそうになるんだよな……あいつ常に元気だし……」
     皋が眉間に皺を寄せる。ジャスミンティーの効果はあまり無いらしい。実際に会ってしまえば皋も楽しそうに過ごしている気がするのだが、それまでが長いのが皋である。
    「大丈夫ですよ、所縁くん。伝家の宝刀・所縁くんトランプさえ持っていれば、みんな所縁くんと遊んでくれるはずですからね」
    「ぜってー持ってかねえ」
    「そうか、そいつは残念だな。なかなかどうして面白えことになりそうだが」
     櫛魂衆とのゲームに凝っている萬燈が、冗談なのか判別のつかないことを言う。そういえば、これも変化だ。萬燈が自分と戦うに相応しい者を──恐らくは新たな『他人』を得たのだ。
    「え、萬燈さんがそう言うなら持っていこうかな……ただのそこら辺に売ってる普通のトランプだけど」
    「その慈悲に感謝するぜ」
    「うわ、萬燈さんがその角度で微笑んでくるのエグすぎるな……」
     皋は戸惑ったように目を逸らす。自分達と接するのに慣れてきたとはいえ、皋のこういうところはあんまり変わらない。
    「じゃあ、合同稽古も合同舞奏披もすっごく楽しいことになるに違いありませんね! 楽しみだなー。私、手土産にニシンのパイとか焼いちゃおっかなー」
    「そういうノリで行くとこじゃないだろ!」
    「昏見が楽しそうで何よりだろ? 親愛なるチームメイトだ」
     いまいちノリが悪い皋に対し、萬燈が笑う。
     それを見ながら、昏見は思った。──果たして、萬燈の変化は自分の予測範囲内に収まっているだろうか?
     元より規格外な人間だ。全てを理解することは出来ないとは思っている。昏見の計画の外にはみ出してしまうこともあるだろう。それが奔放な行動だけに顕れるなら、まだいい。
     その変化が萬燈に何かしらの願いを抱かせた場合が問題だ。
     萬燈夜帳がカミに何かを求めた場合、それは──単なる予想、根拠の無い嫌な予感でしかないが──恐らくは、自分に不利益なものになるだろう。そもそも、昏見はカミに対してかなり好戦的なスタンスだ。手を併せて仰ぎ見ることも、萬燈のように並び立ち手を組むこともしたくない。
     もし、彼が何かを願おうとしているのなら、昏見は先んじてそれを知らなければならないだろう。そして、場合によってはそれを奪わなければならない。
     愛すべき名探偵の決死の願いと共に、目の前の異形の才の願いまで奪わなければならないとすれば、それは大変骨の折れる話だ。だが、昏見は獲物が手強ければ手強いほど燃える性質でもある。
     差し当たっては、合同舞奏披まで彼のことを注視しておかなければならないだろう。
     昏見自身の目的の為にも。
     昏見の中にあるものを微かにでも嗅ぎ取ったのか、それともただタイミングが出来すぎているだけなのか、萬燈がこちらに視線を移した。彼の手がグラスを掲げる。
    「悪いが、もう一杯貰えるか。まだ飲み足りねえんだ」
    「ええ、それはもう。いくらでも」








    著:斜線堂有紀

    この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。





    当ブロマガの内容、テキスト、画像等の無断転載を固く禁じます。
    Unauthorized copying and replication of the contents of this blog, text and images are strictly prohibited.

    ©神神化身/ⅡⅤ

  • 小説『神神化身』振り返り企画 『かみしんベストセレクション』~第二部~

    2021-10-15 19:00
    Twitter公式アカウント(@kamigami_keshin)にて連載中の小説『神神化身』アーカイブです。


    小説『神神化身』振り返り企画
    『かみしんベストセレクション』~第一部~


    斜線堂有紀が描く「カミ」と青年たちの幻想奇譚。
    第二部より入門にオススメのエピソードをお届けいたします。
    第二部から読み進めるのもオススメです!
    小説『神神化身』、まずはここから!

    ■第二部 第一話
    「邂逅インシデント」
    どれだけ努力を重ねても、阿城木入彦には才能の証とされる「化身」が出なかった。
    身を焦がすほど舞奏を愛しているのに、カミは決して認めてくれない。
    届かない思いを向けながらも鍛錬を辞めない阿城木の前に、ある小柄な少年が現れる。
    https://ch.nicovideo.jp/kamigamikeshin/blomaga/ar2017425

    ■第二部 第二話
    「霹靂」
    舞奏の名家に生まれた栄柴巡と、栄柴家に代々仕えてきた秘上佐久夜は唯一無二の親友だった。しかし、舞奏の名手・九条鵺雲の介入により、2人の関係は大きく変わる。屈折した思いを抱え、すれ違いながらも、2人はお互いへの執着をさらに深めていく。
    ■第二部 第九話
    「雷鳴去りて鷺が鳴く」
    相模國から出奔した鵺雲から突然手紙が届き、大騒ぎになる九条家。天才である兄と長年比較されてきた比鷺は、常人には理解しがたい鵺雲の意図が分かってしまう。だからこそ、比鷺は決して鵺雲のようにはなりたくなかった。
     
    ■第二部 第二十話
    「鵺の灰」
    国の音楽プログラムに参加していた中学生の萬燈夜帳は
    人間が人間を崖から突き落とす光景を目の当たりにする。
    しかしながら突き落とされた側である少年には「意図」があった。
    それを知った夜帳は自らの価値観との相違を理由に「共犯」となる。
    天才小説家・萬燈夜帳七作目の小説『鵺の灰』にまつわる物語。

    ▽第二部「ベストセレクション」一気読みはコチラから

    「邂逅インシデント」

      二十歳を超えても化身が出なかった時、阿城木入彦(あしろぎいりひこ)はほんの少しだけ折れそうになった。明確に区切りがあるわけではないが、人生の節目を迎える度に、それまでを顧みなくてはいけなくなってしまう。
     まだこれからだと思えなくなって、どれだけ経っただろう? そこから何とか立ち直って二十一歳になっても、化身は出なかった。これから化身を持たずに過ごしていく時間の長さを考えると、何だか途方もない気分になった。

     だが、今日も阿城木は、大学の講義が終わるなり、舞奏の稽古に勤しむ。この努力がいつか報われると、信じながら舞い続ける。
     今のところ、阿城木に化身が出る予兆は無く、彼は未だノノウのままである。

       *

    「阿城木ー!」
     大学に来るなり、同期の苅屋が駆け寄ってきた。その目が尋常じゃなく輝いているのを見て、苦笑しながら返した。
    「元気だなー、お前。どうしたよ」
    「阿城木! もーほんとにお前がカミだったわ! 音楽文化概論Ⅱも単位取れてた! マジでありがとう!」
    「あー、ヤマセンのやつか……」
    「阿城木が舞奏のことあれこれ教えてくれたからだろ! 舞奏への理解が深いってA貰っちゃったわ! ほんと阿城木様々だよ!」
     飛びつかんばかりに感謝してくる苅屋を躱しながら、二週間前に手伝ったレポートのことを思い出す。確か、舞奏の地域性の話や、それが地元の行事とどのくらい深く関わっているかを纏めるものだった。
    「そういやあったな。俺が八割方書いたやつだろ、それ」
    「いやいや、謙遜すんなよ。お前は九割五分書いた。俺が書いたのは自分の名前だけ!」
    「誇らしげに言うことかー? それ」
    「音楽文化概論Ⅰの時も世話になったしさあ! お前がいればこの講義はA評価間違い無しだわ! この調子でⅢも取っちゃおうかな」
    「それまた俺に頼む気だろ。そろそろ真面目にやれっての」
     だが、阿城木はまたレポートを手伝ってしまうだろう。大好きな舞奏のことで頼られるのは嬉しいし、自分が知っていることや考えたことを改めて文字に起こせるのは楽しい。刈屋のレポートを手伝うという名目で資料を漁るのだって面白いのだ。
    「阿城木そんだけ舞奏詳しいなら、ヤマセンの講義受けようぜ。無双できんじゃん」
    「俺は自分で学んだから、二度勉強したってしゃーないだろ。それに、俺が受けたらお前のレポートが九割五分俺のと一致することになっちまうぞ」
    「そ、それは勘弁してください入彦様……」
    「おうおう、その態度やよし」
    「あ! なあ、今日暇? 俺のサークルの後輩がお前に会いたがってんだよ! 何でも、お前の舞奏よく見に行ってる観囃子なんだってさ! 俺が阿城木のマブだって知ったらきゃあきゃあ言われちって。ご飯食べに行こうぜ?」
    「今日はパス。今日俺レポート出しに来ただけだから。このまま稽古があるんだよ」
    「お前いっつもそれじゃん! いやあ、ストイックですこと」
    「少しでもサボると下手になんだよ。舞奏は一日にしてならず」
    「そんなに頑張ってて、舞奏もめちゃくちゃ上手いのに、化身ってのが無いと覡になれないんだよな? 理不尽過ぎるっつーの!」
     本気で憤慨しているような口調の苅屋に対し、阿城木は笑いながら答えた。
    「んなことないって。俺がまだ足りてないってことなんだから。俺はどんどん上手くなって、カミにぎゃふんて言わせんの」
    「でもさー、舞奏競って舞奏の上手さを競うもんだろ? 身体に出てる変な痣を見せる戦いじゃなくてさ! だったら阿城木が最強じゃん!」
     屈託無く言い切ってくれる苅屋に、少しだけ救われる。だからこそ、まだ阿城木は諦めきれないのだ。
    「最強になりてーな。ほんとに」

     

     阿城木の生活は、大学と舞奏、そして地元の人の手伝いで回っている。養蚕業で一財を成した上野國の阿城木家は、その財を使って地元を活性化させるのに尽力し、この辺りの相談役として名を馳せている。今はもう養蚕をやっていないが、父親の阿城木崇は実業家として活躍する豪傑だ。
     その為か、阿城木の家の人間は頼まれると断れず、問題解決に東奔西走する性質がある。
     レポートを出した後は即稽古に戻ろうと思ったのだが、乾さんのところのおじいちゃんがぎっくり腰ということで、食料品の買い出しをすることになった。そのついでに坂永さんのところの電球を替え、上宮さんのところの孫の風船を探してやった。
     地元の人の力になることは嫌いじゃない。だが、何かをした後に、決まって言われる言葉が、最近心にくるのだ。
    「入彦くんは本当にいい男だよ。カミも見てるに違いないね」
     悪気は無いのだろう。むしろ励ましてもらっているのかもしれない。阿城木も「ありがとうございます!」と答えるし、実際ありがたい話だ。
     だが、思ってしまう。それでも、自分に化身は出ないのだ。 

     一通りのことをこなし終えると、稽古の時間だ。家に戻って着替えてから、庭にある『稽古場』に向かう。
     阿城木の家は昔ながらの日本家屋だ。屋根の部分に張り出した屋根裏がある。養蚕業をやっていた名残だ。昔は阿城木家の敷地内で全てを完結させようとしていたらしく、阿城木の家の庭は尋常じゃないほど広い。おまけに、使っていない建物が沢山ある。
     昔は使用人の控え室であったという一棟を改造したのが、阿城木の稽古場だ。壁が鏡になっており、自分の動きを確認しながら稽古することが出来る。
     上野國の舞奏社は、ノノウは限られた時間しか稽古場を使えない。その為、阿城木はこうして自分の稽古場を作ってもらったのだった。小学校に上がるか上がらないかの頃だったと思う。その時は、化身が出て本物の覡になるまでの仮の稽古場だと言っていた。
     鏡に映る自分のフォームを確認しながら、あれから随分経った、と思う。幼い頃から舞奏を見るのが好きだった。たとえ泣いていても、舞奏を見せると泣き止むような子供だったという。覡になりたいという自分の夢を誰もが応援し、いつかその実力が認められて化身が出ると疑わなかった。
     一体どうしてこうなったのだろう? 二十一歳になった阿城木入彦は、未だ覡になれていない。
     阿城木の地元──上野國(こうずけのくに)の舞奏社では、かつて化身を偽ったノノウがいた。そのノノウは自らの舞奏の技量を過信した末に、身体に偽物の化身を彫り入れて舞奏社に覡として入り込んだ。そのノノウの舞があまりに優れていた為に、社人すらも欺いてしまったらしい。
     だが、その嘘はそう長く保つものではなかった。ある日、そのノノウの正体を看破する真性の覡が現れたのだ。その覡は観囃子の前でその罪を暴き、カミに然るべき罰を乞うた。
     その瞬間、不届きなノノウは罰を食らいその傲慢さに相応しい化生の姿に変えられたという。カミを愚弄した報いは、末代まで及び、そのノノウの血を引く化物は今も彷徨い続けているという。また、これをきっかけに化身伺の伝統が出来、舞奏社所属承認書の制度が生まれた、のだそうだ。
     その結果、上野國の舞奏社は化身というものに殊更にこだわるのである。その所為で覡が輩出出来ず、舞奏競に参加することすら叶わなくとも、徹底的に。自分の國の社が引き起こした事件の責任を取るがごとく、化身持ちを崇めている。
     だが、今のところ上野國には化身持ちの覡はおらず、舞奏衆も組まれていない。かつての阿城木は上野國の舞奏社の期待を一身に背負った存在だったが、今となっては苦い思い出だ。それほどまでに自分の舞奏を認めてくれるのなら、覡として承認してくれればいいのに。他國の舞奏社では、そういった動きもあると聞いている。
     せめて化身を偽ったノノウの話が、上野國舞奏社でなければとも思ってしまう。そうでなければ、ここまで化身にこだわることもなかっただろう。
     だが、阿城木には化身を偽ったノノウの気持ちが痛いほどわかる。そのノノウは、自分の舞奏に誇りを持っていたのだろう。寝食を忘れて打ち込むほど舞奏を愛していたのだろう。それなのに、ただ一点、化身が無いというだけで覡になれないなんて、あまりに残酷すぎる話だ。
     自分のどこがいけないのか。カミは何故自分を認めてくれないのか。もしかすると、自分の舞奏が優れているというのは傲慢な思い込みで、本物の才能の前では霞んでしまうほど不出来なものなのか? カミと自分に答えの無い問いを延々と繰り返し、それでもなお舞奏を奉じなければならない絶望。
     阿城木は、そちら側だ。届くことのない言葉を投げかける側だ。
     身体に偽物の化身を彫り入れる時、そのノノウはどんな気持ちだったのだろう。カミに罰せられ化生に落ちてもなお、舞奏への愛を失わずにいられるだろうか。
     ともあれ、現代の阿城木は偽物の化身を身体に入れることもなく、夢の叶う日を──カミが自分の方を向いてくれる日を待っている。ただひたすらに、弱音を吐かず、この努力すらも苦にならないほど楽しいと、陽の当たる面だけを周りに晒している。
     こうなるまでには随分掛かった。一番荒れていたのは高校生の頃だ。舞奏から一切の手を引き、全部を投げだそうとしたことがある。だが、周りはそんな阿城木を責めず、ただひたすらにこの運命に同情した。阿城木が本心では諦めたくないことを知っているから、遠回しに励ましてくれることすらした。
     みんな阿城木の夢が叶う瞬間を待っているのだ。
     そうして、最終的に祖母が『化身の出る水』なるものを買って帰ってきた辺りで、まずいなと思った。自分は夢を諦められないのだから、覚悟を決めなければならない。変に腐したり荒れたりすれば、周りの方が切実になってしまう。
     努力を続けるのなら、自分が化身にこだわっていないことをちゃんと示さなければならない。
    「ばあちゃん。ばあちゃんの気持ちは嬉しいよ。けど、俺はもう化身はいいんだ。俺は努力と熱意だけでカミに認められてみせる。きっともっと頑張ったら、カミだって俺のことを認めてくれるさ」
     それ以降、阿城木は愚直に努力を続けた。周りは応援してくれている。一介のノノウである阿城木を応援してくれる観囃子も随分増えた。
     だから、まだ折れずにいられる。まだ、阿城木は舞奏が好きだ。今まで懸けてきた時間と熱意を後悔したりはしないだろう。ノノウとしてであっても、舞台に立つ時は楽しい。観囃子の喝采を受ける時のあの泣きそうな気持ちを忘れられない。
     この思いが、いつか偽物になってしまいそうなのが恐ろしかった。阿城木の焦燥が愛情を超え、ただ今までに捧げてきたものを取り返す為だけに舞奏にしがみつくようになってしまったらどうすればいいのだろう?
     そうはなりたくない。
     それこそ、自分が化生に落ちる時なのだ、と阿城木は思う。舞奏への愛を、ずっと抱いている舞奏が楽しいという気持ちを、忘れた時が、阿城木入彦が変じてしまう時なのだ。
     

     稽古を終えて家に帰ると、母親である阿城木魚媛がパタパタと駆け寄ってきた。子供のようなショートカットヘアに、水色のエプロンを身につけた姿は、小柄な背丈と相まって子供がままごとをしているようにも見える。
    「おかえり、入彦! ちょっと忘れないうちに話しておきたいことがあるのよ!」
    「あー? なんだよ帰ってくるなり」
    「ほら、山の方に廃神社あるでしょ。あそこに何か変な人? が住み着いてるらしいのよね。入彦が見に行ってくれたら安心なんだけど。お父さんまーた山口県まで出張っていうんでしばらく帰ってこないから」
    「別に見に行くのはいいけどさ、妙なことしてんじゃなきゃ追い出すのもな。何か理由があってそこにいるのかもしんないし。とりあえず話聞くだけになんぞ」
    「うーん、妙なことっていうか、妙らしいのよ。こっそり地元の人も会いに行ったりしてるみたいで……」
    「会いに行く? 住み着いてるやつに? 何の為にだよ」
    「噂だけど……そこに住んでるのって、すごいえらい妖怪なんですって」
    「は? 妖怪って何だよ」
    「何でも願いを叶えてくれる九尾の狐とかなんとか。まあ、上野國だから、いてもおかしくはないと思うんだけど」
     魚媛が真面目腐った顔で言う。いくらなんでも、そんなことはないだろう。何でも願いを叶えてくれる、という話も阿城木の心には引っかかる。……そんな都合のいい存在がいるわけないのだ。
    「じゃ、まあ……暇な時に見に行くわ。なんかやべー団体とか出来る前に」
    「あ! これはすぐに見に行ってほしいんだけど、なんか蔵から妙な音がするの。ネズミかもしれないし泥棒かもしれないし、九尾の狐かもしれないから見に行ってくれない?」
    「そんなホイホイ九尾の狐がいてたまるかよ」
     そう言いながら、阿城木は再び玄関を出て行く。すっかり外は暗くなり始めていた。ここから先は夜の時間だ。 

     阿城木家の蔵は、養蚕業を営んでいた頃からの歴史あるものだ。今となっては単なる物置でしかないが、色々いわくがあるらしい。
     だからだろうか。扉を開ける時に少し緊張した。どうせ換気の時に開けっぱなしだった窓から、ネズミでも入り込んだのだろう。そう思っているのに、緊張する。
     懐中電灯を携えながら、年季の入った階段を上まで上がっていく。
    「おい、誰かいるか? なーんてな」
     そう声を掛けた瞬間、上の方から床が軋む音がした。
    「……え、まさかマジでお化けとかじゃないよな?」
     背中を汗が伝い落ちる。信じてはいなかったが、こんなところに誰が来るというのか。
    「おい、誰かいるなら返事しろよ。今から行くからな」
     階段を上がるスピードを速める。泥棒? 妖怪? 盗られるようなものは何一つ無い。だからこそ、ここに入り込む目的がわからない。最上階はすぐそこだ。近づいてくる阿城木に『何か』が息を吞む気配がする。
     そうして、最上階まで上がりきったその時だった。
    「うわっ!?」
     最上階ににいたのは、小柄な少年だった。
     童顔なのか実際に子供なのかがわからない。色が白くて線の細いやつだ。やたら気の強そうな丸い目が、まっすぐにこちらを見つめている。その所為で、反応するのが一瞬遅れた。お互いに黙って見つめ合ったまま、次に発する言葉を探す。探す? そこで何してんだ、と言うべきなのに? と自分でも不思議に思う。
     何しろ、阿城木の脳内にあるのは『ようやく出会えた』という意味の分からない感慨だったからだ。
     そうしてしばらく見つめ合った後に、やっと言葉が口から出てきた。
    「おい、そこのガキんちょ何してんだよ」
    「ちょっと、開口一番なんなの? 僕はガキじゃないんだけど。こう見えても十……九歳なんだけど」
    「嘘吐け。贔屓目に見ても十六くらいだろお前」
    「人を見た目で判断しないでよね」
     不服そうに少年が唇を尖らせる。そして、言った。
    「僕は七生千慧(ななみちさと)。舞奏衆を組む為にここに来たんだ」
    「七生千慧……? 舞奏衆……?」
     思いがけない単語に、思わず聞き返してしまう。呆けている阿城木に対し、七生は不敵に微笑んだ。
    「お前のことは調べたよ、阿城木入彦。すごい舞奏の実力だよね。なのに、化身が無い所為で覡になれない。地元の期待を背負っているから、化身にこだわらない他國の舞奏社に向かうことも出来ない。本当に可哀想な状況だと思うよ」
    「……お前に何がわかんだよ」
     思わず、低い声でそう返してしまう。十九歳というのが本当であれ、年下なのは確実だというのに。
    「んで、舞奏衆を組みにきたお前は、どうして化身を持ってねえ俺ん家の蔵に忍び込んでんだよ。ここは客室として開放してるわけじゃねーんだけど?」
    「いや、出て行くタイミングが無かったっていうか、夜の屋外は寒いし、ここくらいしか安寧の地が無かったっていうか……」
     七生が気まずそうに言葉を詰まらせる。もしかすると、目の前の少年は行くところがないのかもしれない。そんなことを考えていると、不意に七生が真剣な表情で言った。
    「阿城木。お前は、まだ覡になりたい?」
    「いきなりなんだよ」
    「いいから答えて。どんなものを犠牲にしても、覡として舞奏を奉じたい? 舞奏競に出たい?」
     心臓が大きく跳ねる。蔵に忍び込んでいた謎の少年に投げかけられるには、あまりにも重い問いかけだ。何しろそれは、阿城木の人生の全てであるといっていい。だからこそ、この状況の異様さすら忘れて、阿城木は毅然とした態度で返した。
    「ああ。俺は俺の舞奏に誇りを持ってるし──舞奏が好きだ。俺は、覡になりたい。化身が無くても、諦めたくない」
     今となっては、改めて口にすることもなくなった、それでも毎日唱えている決意だ。どんなものを擲ってもいい。この炎は、今に至るまで消えなかったのだから。
    「そう、なら──僕がお前を、覡にしてやる」
     七生はまるで自らがカミであるかのような口調で言う。
    「……何言ってんだ、お前」
    「これは冗談なんかじゃない。僕はお前をスカウトに来たんだ。今まで、化身なんてものがないお陰で悔しい思いをしてきただろ? 自分を認めてくれなかったカミを憎んでただろ? なら、一緒に行こう。カミがお前を認めなくても、僕がお前を認めてやる」
     随分ご大層な言葉だ。不遜ですらある。それでも彼の言葉を茶化せなかったのは、あまりにも七生の言葉が熱を孕んでいたからだ。阿城木の魂を震わせたからだ。
     その時初めて阿城木は、自分がカミを、少なからず憎んでいたことを知ったのだった。
    「第一、化身なんて別に舞奏の技量を示すものじゃないってーの。こんなの趣味悪い奴の予約票みたいなもんなんだから。ほんと、僕らはクリスマスミナルディーズじゃないっての」
    「クリスマスミナルディーズ……ってなんだよ」
    「予約必須のクリスマスケーキだよ!」
     訳の分からないたとえを出してきながら、七生が一人で憤慨している。ややあって、七生が続けた。
    「上野國には化身持ちがいないんだろ? 僕が率いれば、まだ説得の目があるかもしれない。いや、認めさせてやる。この好機は絶対に逃させない」
    「おい、お前まさか化身持ちなのかよ? 嘘じゃないだろうな?」
     訝しげに尋ねる阿城木に対し、七生は黙って襟刳りを広げてみせた。
     覗いた肌からは、一部分しか見えなかった。だが、阿城木にはそれが本物だと、否応なくわかってしまう。心の底から焦がれ続けた、才能の証が──化身が、七生の左胸、心臓の上に顕れている。
    「これでわかっただろ。僕は本気だ」
    「……ちょっと待ってくれよ、マジで付いてけないんだけど。お前、一体何なの? 何で俺を誘いに来たんだよ」
    「僕はここに勝ちに来たんだ。大祝宴に辿り着く為に、お前の力を貸してほしい。実はもう一人、仲間に出来る当てがある。阿城木さえ加わってくれたら、舞奏競で戦える」
     思わず、俺でいいのかよ、と言いかけてすんでで止める。そんなことを言えば、自分を応援してくれている人間を、今までの努力を、そして、目の前の七生千慧を裏切ることになる。だから、代わりに言った。
    「本気なんだな? ……七生」
    「ああ。我ら水鵠衆。カミの加護受けぬはぐれ者。であろうとも、それだからこそ、僕達は大祝宴に辿り着く。さあ、カミへのリベンジマッチだ」
     七生が不敵に言った。
     そのまま、彼が急に童顔に相応の表情を浮かべて言う。
    「……その前に、その、ご飯……食べさせてもらえる? 出来れば食後に甘い物があると嬉しいんだけど……」





    「霹靂」

    「もういい。お前だって俺が栄柴(さかしば)の家の子供だから、わざわざ話しかけてくるんだろ。俺はお前がいなくても平気だから、もうあっち行けよ」
     十二歳の栄柴巡(めぐり)は、暗い目でそう言った。目の前にいる秘上佐久夜(ひめがみさくや)は、物心つく頃から一緒にいる幼馴染だ。何をするにも一緒だったし、巡が望めば佐久夜はどんなことでもしてくれた。自分達の間には確かな友情があると思っていた。でも、そうじゃない。
    「今日の舞奏披見ただろ? ……酷い有様だった。みんな言ってる。俺の舞奏じゃ駄目なんだって。栄柴の家は終わりだって噂されてるんだ。俺じゃ駄目なんだよ……」
    「そんなことはない。お前は立派にやっている」
    「嘘だ! 佐久夜は俺に舞奏をやめられたら困るからそんなこと言ってるんだろ! 今日も家の人に言われてきたのか? 巡坊ちゃんのご機嫌を取ってこいってさ!」
     八つ当たりでしかない言葉を吐きかける。佐久夜の表情が少しだけ強ばった。
     ──舞奏の名家と言われる栄柴家に生まれた巡と、遠江國(とおとうみのくに)舞奏社の社人の家に生まれた佐久夜は、本物の友達じゃない。
     これはかつて、同じ社に所属しているノノウに蔑み混じりで言われた言葉だ。
    「お前みたいな役立たずの覡でも化身があるから。だから秘上はうんざりでもお前に従わなくちゃならないんだ。そのことも理解しないでよく友達面出来るよな」
     そう言われた瞬間、自分でも納得してしまったのが嫌だった。そうだとすれば、上手い舞奏が奉じられない自分には、一体何の価値があるのだろう?
    「俺は確かに、遠江國舞奏社の人間だ。それは変わらない」
    「……だったら、」
    「だが、俺は栄柴の覡と仲良くしたいわけじゃない。栄柴巡という人間と仲良くしたいと思っている」
     佐久夜はまっすぐに巡の目を見つめながら言った。
    「巡。お前が舞奏をやめたいというのなら、俺は止めない。だが、そうであろうとも、俺はお前の友人でありたいと思っている」
     子供にしては、やけに仰々しい口調だ。責任を感じさせる。秘上の家でどんな風に育てられてきたかが聞いてわかるかのようだ。だが、その表情はどことなく辛そうで、佐久夜がどんな気持ちでこの言葉を言っているか──その言葉が、どれだけ掛け値無しの本当のことか、巡には分かってしまったのだった。
     ややあって、巡は言う。
    「佐久ちゃん……お前、固すぎるって言われない?」
    「佐久ちゃん……?」
    「仕切り直すなら、渾名とか付けよっかなって。……俺、もう舞奏やめる。それでもお前、俺と一緒にいてくれる?」
     答える代わりに、佐久夜が手を差し出してきた。ごつごつとした固い手を、しっかりと握り返す。
      あれから十年以上の月日が経った。

    「佐久ちゃーん! ねえ、芙美ちゃんが俺とはもう会わないって言うんだけど! どうしよう!」
     あんことライチの風味が香る紅紫色のパフェを突きながら、巡は溺れた子犬のような悲鳴を上げた。向かいに座る佐久夜は、その様を何とも微妙な顔で見つめている。
    「……急に呼び出したと思えば何だ。車まで出させて」
    「いやー、このカフェ最高だけど車無いとキツいじゃん? 佐久ちゃんが足になってくれる時じゃないと来づらいんだもん」
    「お前だって免許はあるだろ」
    「いやー、あまりに俺が遊び回るもんだから家の車使わせてもらえなくなっちゃって」
    「阿呆め」
     佐久夜が厳しい目で睨んでくる。吊り目がちの目は、乱雑に伸ばされた髪と相まって威圧感がすごい。ずっとこの目に晒されてきた巡でなければ、身が竦んでいたかもしれない。
    「第一、その芙美さんとやらの件も、お前がいつまでもフラフラしてるからだろう。懸想されていたのならば真摯に向き合え」
    「だって、運命の女の子かわかんないじゃん……運命の女の子かもわからないのに付き合うのもな」
    「なら、そもそも勘違いをさせるようなことをしなければいい」
     厳しい口調で言いながら、佐久夜はあんことバターとバニラアイスの載った、厚切りトースト並の厚みがあるパンケーキを眉一つ動かさず黙々と食べている。巡は、この男がお腹いっぱいだと言っているところを見たことがない。どんな重量級のものが来ても黙々と食べる佐久夜は、止められさえしなければ数十人前でも平らげてしまいそうな勢いがあった。
    「運命の女の子探しは俺にとって真剣なの! だって、このままだと家が決めた許嫁とかと無理矢理結婚させられちゃうかもよ? 俺はそんな血筋の為の結婚なんてやなの! それとも佐久ちゃん、木刀持って式に殴り込んできてくれる?」
    「木刀を丸腰の人間に向けるのはどうかと思うが」
    「たとえじゃん! たーとーえ! 今は御斯葉衆の指導? 的なことをしてるから、お見合いもほどほどにしてもらえてるけどさ」
     遠江國舞奏社所属・御斯葉衆(みしばしゅう)は、実力の確かな元・ノノウたち三人で組まれた舞奏衆だ。化身を持たない彼らを覡にすることには懸念があったが、栄柴の家の化身持ちである巡が、彼らを強く推薦することで、どうにか実現したのである。
    「井領も小榊も磨屋野もかなり良い具合に仕上がってるし、ワンチャン舞奏競で勝てちゃうかもよ? そうしたら、社人である佐久ちゃんも嬉しいでしょ?」
     あんこをスプーンで掬いながら、巡は言う。だが、佐久夜は真面目な顔をして返した。
    「指導にあたる、か。お前自身はもう舞奏を奉じることに興味が無いのか?」
    「ないない全然ない! だって、どんだけブランクあると思ってんのよ。俺はこの責任とかなんもない状態で、テキトーに口出しすんのが性に合ってるんだって。あ、でも舞奏競に出たら、素敵な観囃子ちゃんたちと出会えるかもしんないよね。それはちょっと惜しいかも」
    「お前はそればっかりだな」
    「なんとでも言えよな! 運命の女の子に出会ったら、佐久ちゃんに結婚式のスピーチ任せてやるから」
     笑いながら、巡はふと想いを馳せる。
     自分がこうして舞奏と適切な距離を取れるようになったのは、全部佐久夜のお陰だ。佐久夜が、覡ではないただの栄柴巡にも価値を与えてくれたから。傍にいてくれたからだ。そうでなければ、自分はどうなっていたか分からない。
     自分が道楽息子としてフラフラしていても、佐久夜は一緒にいてくれる。立派な社人になった今も、覡ではない巡の親友でいてくれる。
     本当は、それだけで十分幸せなのかもしれない。
    「俺はね、ほんとに佐久ちゃんに感謝してるんだよ」
    「なんだ、藪から棒に」
    「今まで俺をすくすく健全に育ててくれてありがとう!」
    「俺は育ててないが」
     佐久夜は真面目な顔をして言う。
    「だが、礼は謹んで受け取ろう。光栄に思う」 
     そんな幸福が長くは続かないことを、巡はどこかで知っていたのかもしれない。
     それは、突然の出来事だった。遠江國舞奏社に、来客が訪れたのだ。

     その日は朝から社が騒がしかった。
     巡の家は舞奏社の隣にある。ちなみに、社を挟んで向かいにあるのが佐久夜の家だ。この立地のお陰で、舞奏社に来客があればすぐにわかる。今日は、社がざわつくような客が来ているらしい。
     そうこうしているうちに、何故か巡が社に呼ばれた。正直断りたかったが、舞奏から逃げている身である以上、こういう社交面での呼び出しは拒否しづらい。
     果たして、遠江國舞奏社がざわめくほどの来客とは、一体誰なんだろう? 
     社の応接室に着くなり、その答えはすぐに分かった。
    「やあ、栄柴巡くんだね。会いたかったよ!」
     そこに立っていたのは、九条鵺雲だった。
     鵺雲は、相模國の舞奏社に所属していた覡だ。だが、彼は急遽姿を消し、櫛魂衆には代わりに弟である九条比鷺が加入したというが。──その彼が、何故ここにいるのだろう?
    「改めまして。僕の名前は九条鵺雲だよ。二十四歳! 九条家の跡取りで、楽しく覡をやっているよ。趣味は知らない街のライブカメラを見ること! あ、ちなみに弟の比鷺は天才人気実況者なんだ!」

     わざわざ説明されなくとも、重々知っている。相模國の九条家といえば栄柴と並んで──いや、それ以上に舞奏の名家だ。九条鵺雲の顔と名前なんて飽きるほど目にしてきた。
     華のある雰囲気に存在感のある佇まいは、卓越した舞奏の技量を伺わせる。そして、襟刳りの大きく開いた服から覗く雷のような形の化身。鎖骨に顕れたそれが、彼という人間を端的に表していた。
     人形のように整った顔立ちは、薄気味悪いくらい弟の方に似ている。違いといえば、目元と口元の黒子くらいだろうか? それなのに、弟とは絶対に見間違いようがないのが不思議だ。
     内心の反発を押し隠し、巡は笑顔で言った。
    「どーも、鵺雲さん。俺は栄柴巡です。て言っても、覡にもならずにフラフラしてる道楽息子ですけど! ま、遠江までよーこそ。相模國の名家が一体どんなご用で?」
    「わあ、名家だなんて、言われ慣れてるけど嬉しいな。栄柴家もとても良い血筋の家だものね。褒めてもらえて光栄だよ」
     鵺雲はにこにこと笑って、握手を求めてきた。
     少しだけ悩んでから、仕方なく手を差し出す。
    「……聞いていた通り、とても美しい化身だね」
     鵺雲が言う。きっと、知っていて握手を求めてきたのだろう。
     巡の化身は左掌に刻まれている。日常で幾度となく意識される場所でありながら、握り込んでしまえば見えなくなる位置でもある。昔は、この位置に化身があることすらも揶揄された。舞奏が未熟であるから、隠れるような位置に化身が出たのだと。
     だから、巡はあまり人と握手をしようとはしない。気後れしてしまうからだ。気負いせず握れたのは、幼い頃に佐久夜に差し出された手だけだ。
    「どんな用か言うのを忘れていたね。今日はご挨拶だけしに来たんだ」
    「挨拶……?」
    「そうそう。僕、遠江國に住むことになったんだ。だから、ご挨拶。引っ越し蕎麦を用意するべきだったのかもしれないけど、生憎僕はうどん派だからさ」
    「住むって……鵺雲さんがですか? 相模國はどうしたんですか」
    「ちょっと気分を変えてみたくなったんだ。ともあれ、僕が来たんだから、その土地の舞奏社に顔を出さないわけにもいかないでしょ?」
     まるで自分が覡の総代であるような顔をして、鵺雲が笑う。確かに、有名な覡であった鵺雲が、遠江國の舞奏社に来るのはおかしくないかもしれない、しれないけれど。
    「それにしても、鵺雲さんといえば……櫛魂衆を出たらしいじゃないですか。一体どうしてです? 界隈もその話題で持ちきりって感じで。俺もぶっちゃけトーク聞きたいなっていう」
     自分が舞奏から退いたことを余所に、巡はそう尋ねた。九条の家の舞奏指導は栄柴に負けず劣らず苛烈だと聞いている。幼い頃からそれに耐えてきた鵺雲がうんざりしてもおかしくないとは思っていたのだが──それにしては、鵺雲の態度は以前と変わらない。むしろ、以前にも増して覡としての自信に満ちているように見える。
     ややあって、鵺雲は笑顔で言った。
    「だって、櫛魂衆には比鷺がいるもの。僕だって出来ればひーちゃんと舞いたかったけれど、ひーちゃんは僕がいなくならないと独り立ち出来ないからさ。それはもう身を切るような思いで諦めたわけ」
    「はあ……じゃあ、弟さんに覡の座を譲る為に鵺雲さんが引いたって感じですか?」
    「譲るなんてとんでもない! 比鷺はすっごく素敵な覡だもの。真面目にやる気を出してくれていたら、僕なんかあっさりと抜かれてしまっていたはずだよ」
     鵺雲はキラキラと目を輝かせながら言う。心の底から弟の実力に感嘆している、とでも言わんばかりの表情だ。
    「そんなわけで、櫛魂衆には比鷺がいるし、三言くんもいるから。僕がいなくても大丈夫だなって思ったんだ。今回の舞奏競には他に相手になる舞奏衆がいないもの。三人全員が化身持ちの舞奏衆が無い時点で結果が見えてる」
    「化身持ちって言うなら、武蔵國の闇夜衆とかがいるでしょ。あれ結構ヤバいっすよね。有名人揃えて歓心爆上げ的な?」
     闇夜衆は、巡も注目していた舞奏衆だった。探偵だの小説家だのの前歴を持ちながら、化身が出たという理由で覡になった異色のチームだ。舞奏の世界に全く縁の無かった彼らが鳴り物入りで入ってきたことは、少なからず他國にも衝撃を与えた。それでいて、舞奏の実力も確かなものだという。
     だが、鵺雲の反応は芳しくなかった。
    「ああ、闇夜衆。闇夜衆ね」
     鵺雲の微笑みの温度がすっと低くなった。表情自体が大きく変わったわけでもないのに、彼の負の感情が伝わってくるかのようだ。蔑みとも怒りともつかない、得体の知れないものがそこにはあった。
    「……何か、思うとこある、的な?」
    「思うところ? 嫌だな。それだと僕が闇夜衆を目の敵にしているみたいじゃない」
    「え、だってなんかあんま好きじゃなさそうだし……?」
    「目の敵にするほどのものじゃないよ、彼らは」
     鵺雲が冷笑する。
    「ああ、でも萬燈先生がいるか。実は僕、本当は萬燈先生と舞奏衆を組むはずだったんだ。なのに、僕を余所に闇夜衆なんて組んじゃうんだから傷ついちゃったよ。彼は見る目の確かな人物だと思っていたんだけど……。あとは……皋所縁さんだね。彼は技量が全然足りていないけど、切実さはあるから好ましいと思ってるよ。何より、化身の位置がいい」
     すらすらと、鵺雲は闇夜衆の『許せるところ』を語っていく。一体どの目線で物を語っているのだろう? そう思ってしまうような口調だった。だが、それが妙に堂に入っている。まるで神が如き口調で、鵺雲は続けた。
    「でも、あそこには昏見有貴がいるからね。彼を入れた時点で、闇夜衆は駄目だよ。半世紀前から、あの一族には辟易させられる。彼がいる時点で、闇夜衆の底が知れるね」
    「昏見? あそこって何か有名な家なんですか? 聞いたことないんですけど」
    「あれは舞奏の名家じゃない。カミに仇なす思い上がりの血筋だよ。なら、ここらで一つ、蝋の羽を叩き折ってあげないと」
     その口振りにぞっとした。半世紀前ということは、五十年前の話だ。一体そんな昔に何があって、報いを受けさせようとしているのだろう。
    「何にせよ、僕が見据えてるのは比鷺が率いる櫛魂衆だけってことだね! はあ、楽しみだなあ……。ひーちゃんには最近全然会えてないし、電波? が悪いのか、メールも上手く届かないんだ。メールが返ってこないのは、比鷺が毎日舞奏とゲームを頑張っていることの証明だし、何なら比鷺が僕に遠慮してくれているっていうことだから悲しく思ってはないんだけどさ……。うう、弟が優しすぎるっていうのも辛いものなんだね」
     後半は本気で何を言っているのかが分からなかった。というより、鵺雲がどうして遠江國舞奏社でこんな話をしているのかがそもそも分からない。他に相手になる衆がいないから、櫛魂衆は弟の方に任せた。それはいい。
     ということは、鵺雲はここに何をしに来たのだ?
    「なんか、その、俺の勘違いだったら申し訳ないんですけど……」
    「うん? どうしたのかな?」
    「失礼します。九条様」
     その時、応接室に佐久夜が入ってきた。
    「父が、九条様にお目通りしたいと」
    「わあ! 会ってもらえるんだね! 嬉しいよ。秘上の家は本当にいい社人の家系だし、君のお父上には、九条の家もお世話になったんだよ。合同舞奏披の時とかね」
    「恐縮です」
     佐久夜が深々と礼をする。来客を優先しているからだろう、佐久夜は巡の方を見ない。当たり前のことであるのに、何故か一抹の寂しさと不安を覚えた。
    「巡様とのご歓談はいかがでしたか」
    「とても有意義なものになったと思うよ! 化身も見せてもらえたしね。あ、そうだ。でも大事なことを聞いてなかった」
     くるりと身を翻し、鵺雲がこちらに向き直る。
    「ねえ、巡くん。君は本当に覡をやるつもりはないの?」
    「俺が? 無いですよ。こんな不真面目な奴が覡になろうなんて、カミも怒っちゃうんじゃないかなー? 第一、御斯葉衆は俺なんかより上手い奴らで構成されてますから!」
    「でも、彼らには化身が無い」
     撥ね除けるように鵺雲が言う。
    「この不出来な僕から見ても、舞奏の技量は笑ってしまうような児戯ではあるんだけどね。やはりカミの目は正しい。彼らに化身が顕れない理由がわかるよ」
    「……それは無いんじゃないですか? 鵺雲さんこそ、見る目ないですよ」
    「あはは、気分を害しちゃったかな? ごめんね。でも、そうか。残念だよ。君の血筋なら、きっと栄柴の夜叉憑きを再現出来る。その才能を腐らせるのは損失だ」
    「俺はそんなことを言われるような器じゃない」
    「でも、巡くんがそう言うなら、強要するのもあれだよね。それじゃあ、会えて本当に嬉しかったよ」
     鵺雲はそれだけ言うと、佐久夜を連れて出て行ってしまった。
     嫌な予感がする。まるで天候が変わる前だ。空模様が変わり、雷雨がやってくる。この地は雷が縁深く、巡は雷三神社に何度も参ったことがある。
     だからだろうか。何かが起こる時、巡はいつも雷を連想する。
     遠江國・御斯葉衆が解散したという話を聞いたのは、その翌日のことだった。 



     寝耳に水であるという気持ちと、やはりそうなったかという気持ちが綯い交ぜになる。決まってしまった以上、この決定は覆らないのだろう。自分が推薦した三人のノノウ達の顔が代わる代わる浮かんできた。
     だが、彼らは巡に訴えてはこなかった。ただ粛々と、社の決定を受け容れたというのだ。
     そんなことがあっていいはずがない。たった一人の化身持ちが現れただけで、今までの御斯葉衆が解散されていいはずがない。
     だが、昨日と同じように応接室で待っていた鵺雲は、平素と変わらない様子だった。一つの舞奏衆を崩壊させたとは思えないような佇まいでくつろいでいる。
    「こんにちは、巡くん。ご機嫌どう?」
    「……御斯葉衆を解散させたんですか」
     分かりきっていることを、わざわざ尋ねる。昨日、舞奏社の実質的な最高責任者である秘上家の人間に会っている時点で気づくべきだった。これが、鵺雲の目的だったのだ。
     だが、鵺雲は少しも悪びれることなく、薄い微笑を浮かべた。
    「だって、素晴らしき遠江國の舞奏衆が化身も持っていない紛い物の覡で組まれるなんて……耐えられないでしょ?」
    「紛い物なんかじゃなかった! あいつらには……実力が、」
    「彼らは、むしろ自分から辞退を申し出たんだよ。僕が遠江國舞奏社に所属すると言ったらね」
     それは、実質選択肢が無いじゃないか、と巡は思う。目の前の男の実力は知っている。彼を差し置いてまで舞台に立つプレッシャーに、並の人間が耐えられるはずがない。
    「……三人全員降りるんですか」
    「そうなるね」
    「でも、それじゃあ困るんじゃないですか? まさか、鵺雲さん一人で舞うわけにもいかないでしょ」
     もしかして、ここから巡が誘われるのだろうか。そう身構えていると、鵺雲は思いがけないことを言った。
    「一人はもう見つけてあるんだ。純然たる化身持ちの覡をね」
    「それも余所から引っ張ってきたんですか?」
    「いいや。君もよく知っている人物だよ」
    「俺も、よく知っている……」
    「佐久夜くんだよ。秘上佐久夜くん」
     一瞬、何を言われているのかわからなかった。
    「佐久ちゃんが覡になる? 冗談だろ? だって、そもそも佐久ちゃんは化身持ちじゃ──」
    「佐久夜くんはね、昨日化身を発現したんだ。社人として覡を支え続けてきた功績が、カミに認められたのかもしれないね」
     そんなはずない、と言おうとしたが、言葉が出てこなかった。鵺雲は冗談を言っているわけじゃない。本気なのだ。
     佐久夜に化身が出ることなんて想像していなかった。そんなことが起こるなんて。
    「というわけで、僕と佐久夜くんが新たな御斯葉衆になることにしたんだ。楽しみだよね」
    「ちょっと待ってくださいよ、だって……」
    「そんな悲しそうな顔をされると、僕まで悲しくなっちゃうよ。うんうん、わかってるよ。佐久夜くんは大切なお友達なんだもんね」
     自分がどんな顔をしているのかわからなかった。ショックを受けているのだろうか。それとも、これから来る嵐に怯えているのだろうか。
    「これからも全然仲良くしてくれて構わないよ。ただ、僕らは同じ衆の仲間で、君は違う。これからはそこをちゃんと弁えてくれるかな?」
    「弁える……」
     言われたままに繰り返す。
    「だって、舞奏衆なんだもの。栄誉なことでしょう? それがどれだけ優先されるべきもので──実際に優先されてきたか、栄柴の覡である君なら分かっているはずだよね?」
     その通りだ。舞奏衆を組むということが、どれだけ重いことかを知っている。だからこそ、目の前にいる九条家の跡取りと、自分の親友である佐久夜がその絆を結ぶということが理解しがたかった。覡としての役目から逃げ出した自分が、そんなことを考えるなんてあってはならないのに。
     佐久夜は、ずっと巡の傍にいてくれた。どんな時でも、巡を支え続けてくれた親友だ。それは、これからも、どんなことがあっても変わらない。本当に?
    「佐久ちゃんは──覡になることを了承、してるんですか?」
    「勿論だよ。僕が嫌がる佐久夜くんに強要すると思う? 何なら、本人に聞いてみるといい」
    「そうします」
     間髪入れずに、巡は答えた。
    「俺は、俺から……佐久夜の本当の気持ちを聞かせてもらう」
     頭の端で、雷鳴が轟いている。何故だろう。
     いいや、そうやって問い直すことすらただの現実逃避だ。佐久夜に救ってもらい、覡であることから逃げ出した自分は、いつかツケを払わなければならないんじゃないかと思っていた。それが今日なのだ。晴れ渡る空はもう何処にも無い。嵐は来る。
     彼の元に向かっている最中から、巡は佐久夜の返答を察していた。何しろ、二人は親友なのだ。
     それでも、目覚めに愚図る子供のように、本人の口から決定的な言葉を聞くまで、巡は諦められなかった。

     





    雷鳴去りて鷺が鳴く

      独演舞奏の話を聞いた時に、比鷺が一番最初に思ったのは面倒そうということで、二番目に思ったのは俺で本当にいいのかな、ということだった。櫛魂衆として活動を始めてからしばらくになるけれど、比鷺は今でもこの状況に新鮮に驚く。
     確かに化身持ちではあるし、不本意ながら九条家の血を引く覡でもある。けれど、自分がここにいるべきじゃないんだろうな、ということも比鷺は幾度となく思ってしまうからだ。
     九条家の玄関には、数年前に撮った仰々しい家族写真が飾られている。そこには、穏やかに笑っている兄と、その兄の方をちらりと窺いながら、苦虫を噛み潰したような表情をしている自分がいた。兄は比鷺の両肩に手を置いていて、まるで逃げないように捕まえているみたいだ、と思う。
     恐ろしいのは、その写真に写っている兄が、今の自分にそっくりなところだ。比鷺は兄の鵺雲に年々似てきている。玄関で靴を履いている時、比鷺はそこで笑っているのが自分なんじゃないかと、時々見誤った。
     そういう時、比鷺は櫛魂衆として舞うのも、独演舞奏をするのも、彼の方だったのではないかと思ってしまう。

     相模國から出奔した九条鵺雲から手紙が届いた後、九条家は当然のように大騒ぎになった。何しろ、全く予期していなかった連絡だ。鵺雲からの言葉を心待ちにしていた彼らからすれば、天地がひっくり返ったような騒ぎだろう。
     だが、一頻り騒ぎになった後は、一転して水を打ったように静まり返った。何事もなかったかのように普段通りの日常が戻り、鵺雲からの手紙など届かなかったかのように振る舞っている。そのあまりの変化に、思わず母親に探りを入れてしまったほどだった。
    「あのさ、あの人からの手紙ってどんなものだったの?」
    「あなたが気にするようなものではありませんでしたよ」
     彼女はきっぱりとそう言った。とりつく島がない。とりつかせるつもりがない。実年齢よりもずっと若く見える母親は、鵺雲に似ている。ということは自分にも似ている。ああ、笑ってない時ってこんな冷たく見える顔なんだな、と思うと、自分も鵺雲よろしくもっと愛想良くしないとな、と身につまされる。
    「気にするは気にするでしょ……そっちは散々あいつの話ばっかりしてきたんだし。控えとしては本命がどうなってんのかはオオゴトじゃん」
    「今はあなたが櫛魂衆の覡です」
     ばっさりと切り捨てるように目の前の女が言う。
     あの兄はこんな風にあからさまに感情を出してきたりはしない。それなのに、こちらを諫めるその目が、一番九条鵺雲を思い出させた。

    「まあ、そんなわけで親からは何にも情報が得られなかったわけなんだけど、家に出入りしてる使用人さんたちからちゃーんと手紙の内容を知ることが出来ましたー! ふっふっふ、人の口に戸は立てられぬ……俺がどれだけあの家でステルスしてきたと思ってんのかねー? 隠しごとしようとしたって無駄だっての!」
     翌日、稽古をする為に舞奏社を訪れた比鷺は、得意げにそう言った。だが、三言は不思議そうな顔を、遠流に至っては不快そうな顔を浮かべている。なんだよ、と言おうとしたら、その顔のまま遠流が口を開いた。
    「お前が蔑ろにされることに慣れすぎて腹が立つ」
    「ちょっ、ならそこは慰めてよしよしして遠流だけは優しくしてくれるとこじゃないの!? ていうか、今更だしねー。むしろ今なんか超優しいくらいだわ」
    「俺はいつでも比鷺に優しくしたいぞ」
    「うわーっ! 三言の真顔真面目マジレスが最高の方向に作用したパターン! らびゅーらびゅー愛してる!」
    「それで、結局九条鵺雲はどうしてるんだ」
     勢いのまま三言に抱きついた比鷺を引き剥がしながら、遠流が尋ねる。少し逡巡してから、比鷺は言った。
    「実は、……遠江國にいるらしくて」
    「遠江國? なんでそんなところに」
    「俺もよくわかんないんだけど……なんか、なんでだろうね」
     鵺雲の手紙には、自分が遠江國にいることと、ここで自分はやるべきことが出来たということ、そして──櫛魂衆の九条比鷺が立派な覡になり、勝利したことを寿いでいるということが綴られていたらしい。今いるところが判明しただけ大きな一歩かもしれないが、それでも少なすぎる情報だ。
     けれど、比鷺は何となく鵺雲のやりたいことが分かっていた。何しろ比鷺は、彼の考え方を理解してしまっている。九条鵺雲は自分の目的を達成する為だけにしか動かないし、それは往々にして舞奏に関することだ。
     遠江國といえば、舞奏の名家として有名だった、栄柴の家があるところだ。化身持ちの覡を多数生み出しながらも、舞奏の世界から消えてしまった家。名家としての役割を果たすことの出来なかった家。それでも、遠江國で有名な家といえば今でもそこくらいだ。
     九条鵺雲とそんな場所の相性がいいはずがなかった。
    「ほんっと、あいついたらいたで最悪なくせに、いなくても迷惑ってどーいうこと? 帰ってこないのはありがたいけど!」
    「俺は寂しいぞ。鵺雲さんは優しかった覚えがあるし」
    「そりゃあ三言には優しいだろうけどさぁ」
     だって、化身持ちで、舞奏の才能があるんだし。心の中で呟きながら、比鷺が唇を尖らせる。その後で、ふと真面目な顔になった。
    「ていうか、優しい人間こそ苦手なんだよね、俺」
    「優しい人間が苦手? どうしてだ?」
    「苦手っていうか、気後れするっていうか、違う人間だなって思っちゃう。分け隔て無く優しい人間とか、他人のことをしっかり褒められる人は、自分に余裕があるから出来るんだよ。……自分に誇れる才能があるから」
     才能という言葉で思い出すのは、一度競い合った萬燈夜帳のことだ。彼は天才小説家兼作曲家という盛りに盛った肩書もさることながら、舞奏の技量も相当なものだった。ずっと舞奏に触れてきた比鷺から見ても群を抜いている。おまけに誰にでも分け隔て無く接し、褒めるところは手放しで賞賛する。こんな完璧な人間がいるものだろうか、と、素直に感心してしまったくらいだ。実際に、褒められた時は溶けそうなくらい嬉しかった。あれだけの才のある人間が、控え子でしかない自分を見出してくれたのだから。
     だが、同時に酷い断絶も覚えた。何しろ彼は、自分に与えられた才の何たるかを知っている。それがどれだけ得がたく、周りの人間には届かぬものかを弁えている。だからこそ、相応の振る舞いを崩さない。自分の才能が周りの人間にとって恩寵であるように生きている。
     その様は、九条鵺雲によく似ていた。
     九条鵺雲は、表向きには人当たりのいい人間だった。上手く周りとやっていけていたし、周りはみんな鵺雲のことが好きだった。あれだけ心穏やかに色んな人と仲良くやれていたことは、素直に凄いと思う。何かに苛立っている様すら見たことがない。
     それは、彼が明確に自分と他人を分けていたからだ。生まれ持った化身に見合うだけのものを示し、その軸を少しも揺るがせることなく生きていたからだ。彼の世界には他人なんて存在していなかったのではないだろうか、と思う。周りの人間は鵺雲の才を甘受するだけのものでしかなく、その実鵺雲の思う通りに動かされていた。
     萬燈夜帳が好ましい人間であるのは、彼がそうありたいと思ったからだろう。あくまで彼がそうあることを選択しただけで、突き詰めれば鵺雲と大差ない。ただ恵まれていたが故に他人に恩寵を与えられる、余裕のある者たちのノブレス・オブリージュ。それを、優しさだとは呼びたくない。
     そう強く思うのは、自分が同じようになってしまう可能性に、幾度となく向き合わされるからだ。
     自分と鵺雲は、とてもよく似ている。いつか自分もこの控えられた才能に折り合いをつけ、周りの平凡な人間たちと一線を引きながら、驕り高ぶる人間になるのかもしれない。そうしたら、自分も鵺雲のように、静かに他人を支配するようになってしまうのかもしれない。
     そうなるのが恐ろしい。九条比鷺は、九条鵺雲にはなりたくない。
     不安を振り払うように、比鷺は大きく首を振って言った。
    「でも、よかったよね! だってさ、あいつが遠江國にいるってことは、…………ことは」
    「何だ。言いかけたなら最後まで言え」
     遠流が急かすように比鷺をつつく。そうして比鷺は、躊躇っていた言葉をそっくり吐き出した。
    「……俺、あの人が帰ってきたら、多分すごく嫌で」
    「比鷺が鵺雲さんのことを苦手にしているなら、それはそうかもしれないが」
     三言が心配そうに言うのに対し、比鷺は「そうじゃなくて」と小さく呟く。
    「もっと、どうしようもない話。俺、あの人が帰ってきて、……櫛魂衆が今のままでいられなくなったらっていうか、俺ら三人じゃなくなったら、やだなーって……」
     鵺雲はどう見たって自分の上位互換だ。姿形も似ていれば、舞奏そのものだって似通っている。あらゆる面で、比鷺よりも鵺雲の方がいいのだ。ゲームをしている時の比鷺だって、似た効果の装備やアイテムがあれば、少しでも優れている方を選ぶ。
     もし鵺雲が戻ってくることがあれば、抜けるのは自分になるかもしれない。そう思うと、せいせいするはずなのに寂しかった。
     舞奏競を経て、自分が変化してしまったことを否応なく知らしめられる。比鷺はこの三人で、舞奏衆を組みたい。
    「比鷺」
     その時、三言が不意に口を開いた。
    「それは、俺も考えたことがある」
    「えっ!? 三言も?」
    「ああ。……前に、三人で花火をした時に、同じことを思ったんだ……実力のある人間が覡になって、舞奏衆を組むべきだってことは分かってる。でも、俺はこの三人がいいって」
     それを聞いた瞬間、比鷺の中にポッと火が灯るようだった。
    「な、……なんだよー! 三言も結構欲張りじゃん! なになに? 我欲、出てきちゃった感じ!?」
    「出ているのかもしれない……出ているのか?」
    「出てる出てる! ね、もう一回言ってよ」
    「俺は遠流と比鷺と、櫛魂衆を組んでいたい」
     三言がはっきりと宣言する。
     その時、遠流の方が何故かホッとしたような、傷ついたような、奇妙な表情を浮かべた。
     もしかして、感極まって泣いてしまいそうなんだろうか。それにしては、遠流の表情はおかしかった。嬉しいのと苦しいのを半分に掛け合わせて、間で引き裂かれそうになっているみたいだ。
     どうしたの、と尋ねてやるより先に、その表情のまま遠流が口を開いた。
    「……もし、僕よりもずっと仲のいい親友が、……本物の親友が、浪磯にいても? 僕みたいな後からの人間じゃなくて、生まれつきの化身持ちで」
    「え? それは……どういう意味だ?」
     三言が困惑したように尋ねる。
    「僕じゃなくて、僕よりもっと大事な、人間がいたら……。三人の舞奏衆で、抜けるのは」
    「なぁーに意味分かんない構ってちゃんしてんだよ! 例え話で不安がるのはギャルゲのキャラの特権だっつーの」
     比鷺はそう言って笑い飛ばしてやったものの、遠流の表情は晴れなかった。むしろ、もっと神妙な顔つきになっている。それに対し、三言も困惑したように答えた。
    「俺は、遠流と比鷺以上に大切な親友はいないと思ってるぞ。ずっと一緒にいられて嬉しいし、これからも櫛魂衆として一緒にいたい」
    「……三言がそう言ってくれるのは嬉しい、けど」
    「けどじゃないって! もしかしたら三言とちょー仲良くなれる運命の大親友がこの世のどっかにいるかもしれないよ? でも、今ここにいるのは俺らじゃん! 俺と遠流じゃん! なら、それでいいんじゃないの? 俺はお前のこと、ちゃんと親友だと思ってるし……」
     フォローをするようにそう言うと、遠流はようやく調子を取り戻したように「そう……そうだね」と言った。毒舌で返されると思ったのに、らしくない。こんなしゅんとしている遠流はもっとらしくない。もっと気ままでマイペースで毒舌で、それで物凄く頑固で努力家なのが遠流だ。そんな不安は抱かなくていいのに。何だか無性に落ち着かなくて、比鷺は大きく手を打ち鳴らした。
    「さーて! じゃあ稽古しようか! くじょたんの本気を見せちゃうぞ! ほらほら遠流も早く準備して!」
    「おお、今日の比鷺はやる気があるな!」
    「そうだよ! こんな日なんかめっっっったにないんだからね! 期間限定SSR二倍、十連で星五確定ガチャくらいないから!」
     そう言いながら、遠流を引っ張り起こす。昔寄りかかられた時の、懐かしい重みが肩にかかる。昔の遠流はずっとこうして寄りかかっていたような気がする。あの頃の遠流が、今はもうあまり思い出せない。
     そうしてふと稽古場の鏡を見ると、やっぱりその顔つきは兄に似ていた。背格好も殆ど同じになっているし、遠巻きに見たらわからないかもしれない。そのことが、凄く苦々しい。
     それでも比鷺が兄と似たような格好をしているのは、彼に似ているという自分の武器を──かつて認められたものを手放したくないからだ。比鷺にとっての勇者のつるぎ。ここで生きていくのに、必要なもの。それを捨てるなんてとんでもない、と比鷺は小さく呟く。





    「鵺の灰」

     人間が人間を突き落とすところを見たのは、十五歳の夏のことだった。萬燈夜帳が、とあるプログラムに参加した時のことである。
     アルトゥール・ディアベリが来日するということで、十五歳の萬燈夜帳はとある山奥にある音楽ホールにやって来ていた。アルトゥールはウィーン出身の作曲家であり、優れたオルガン奏者でもあった。彼の来日のきっかけは中学生を対象とした国の音楽プログラムだった。国から音楽に興味のある子供達を招待し、国際交流と音楽教育を一度にやってしまおうという腹である。
     そんな場に萬燈夜帳が招待された理由は二つある。偏に彼がドイツ語に堪能であり、中学生ながら通訳要らずだったからと──アルトゥールは萬燈夜帳が敬愛してやまない音楽家の一人だったからだ。
     そういったわけで、萬燈夜帳は通っていた私立中学の代表としてアルトゥールに挨拶をし、オルガンの演奏と歌の披露をした。他校の音楽に造詣の深い生徒との交流も行うことが出来、大いに実のあるプログラムだったと言える。
     だが、プログラムの休憩時間に山を散策したお陰で、豊かな音楽体験とは無縁のところを目にしてしまった。崖際に佇んでいる学生服の少年を、後ろから歩いてきたもう一人の少年が突き飛ばす。バランスを崩した少年は崖から転がり落ち、その様を見た『犯人』は怯えたように立ち去ってしまった。
     夜帳はすぐさま崖の下を覗き込む。数メートルの高さだったが、打ち所が悪ければ死んでもおかしくない。崖下の少年は意識を保ってはいるようだが、出血もあるようだ。
     夜帳は悩む間も無く、場所を選んで慎重に崖を降りていく。
     そうして少年と同じ地面に立った時、少年はゆっくりと口を開いた。
    「驚いたね。こんなところまで降りてくるなんて。誰かを呼べば面倒を回避出来たかもしれないよ」
    「だろうな。だが、俺には降りられる技量があるし、降りたら応急処置を出来る能力もある。なら、こっちが先でいいだろ」
    「なるほど、そういう考え方をするんだ」
     少年は額を切っているらしく、顔には血の筋が伝っていた。だが、それでもなお、その顔の造形が過度に整っていることは分かる。
     年の頃は夜帳と同じくらいだろうが、この時点で既に完成されているような美しさがあった。この外見を愛でる人間は多くいるだろう、と夜帳は客観的に思う。
    「骨が折れているとかはねえか」
    「うん、大丈夫。そういうところに影響が出ないよう、ちゃんと受け身を取ったから」
     ちゃんと受け身を取ったという割には、リスクの高い落ち方をしているようにも見える。これでは何を守ったのかが分からない。腕や足に切り傷は出来ているものの、確かに骨は折れていないようだ。その他はどうなっているのだろうか。そんなことを考えていると、少年は嬉しそうに言った。
    「君、萬燈夜帳くんだよね。アルトゥールさんと会話をしてた、どこかの中学の代表生徒」
    「ああ。そうだな」
    「アルトゥールさんの演奏の後に、君もオルガンを弾いていたよね。歌も……。その時、素晴らしい才能だと思ったよ。そんな夜帳くんに助けてもらえるなんて嬉しいな」
     そこまで言って、少年は思い出したように付け足した。
    「ああ、そうだ。僕の名前は九条鵺雲だよ。今回のプログラムには、オルガンの演奏が目当てで来たんだ。あの音が、すごく好きで」
    「奇遇だな、俺もだ」
     そう言うと、鵺雲は嬉しそうに笑いかけてきた。そんな状況ではないのにもかかわらず、その顔はどこか穏やかだった。
     幸いなことに、夜帳は封を切っていないミネラルウォーターを持っていた。それを開けてティッシュに染みこませ、顔などに付いてしまっている血を拭う。そして、ハンカチを使って腕の止血をする。
     処置が終わるまで、鵺雲はじっと一連の動きを見つめていた。目の前で起こっていることを不思議そうに観察している、といった方が正しいかもしれない。その点も、彼を浮世離れしていると感じさせる部分だった。
    「よし、これでいいだろう」
    「ありがとう。助かったよ」
    「それで、これからどうするんだ。俺は生憎と犯人の方を目撃しちまったわけだが」
    「ああ、うん。戎矢くんだね」
     あっさりと鵺雲が言う。どうやら、鵺雲も犯人には気づいていたらしい。
    「突き落とされる心当たりがあるのか」
     そう尋ねると、鵺雲は少し悩んでから答えた。
    「九条家も戎矢家も、とある郷土芸能の名家なんだ。その繋がりで、戎矢家の先代から、息子と同じプログラムに行かないかって言われてさ。僕としては特に断る理由も無かったんだけれど……戎矢くんは僕と一緒に、というのはあまり気が進まなかったみたいで」
    「だからって崖から突き落とすか?」
    「崖というか、大きな坂道──いや、崖だね。柵も立っていたくらいだし」
     鵺雲は自分が落ちた崖を見上げながら言う。鉄線で作られたやる気の無い柵の一部は、鵺雲が落ちた時にぶつりと切れてしまっていた。鵺雲はのんびりと「突き落とされたって丸わかりだね」と笑っている。
    「……実はね、戎矢くんはとても追い詰められていたんだ。郷土芸能で結果が出なくて……それに、才能の証も周りに示せていなかったし。それで、僕のことを見かける度に焦燥を募らせていたのだと思う」
     鵺雲は、何故か鎖骨に手を当てながら言った。崖から落ちた時に破れてしまったのか、制服のシャツがはだけて、その部分が露出している。
     そこには、奇妙な刺青があった。真面目そうな鵺雲が入れるのにはそぐわない、大きくて派手なものだ。──いや、と夜帳は思い直す。よく見ると、刺青のような人工的なところを感じさせない。だとすれば、痣だろうか? それにしては、柄として美しすぎる。これは一体何なのだろう。
     夜帳の疑問を余所に、鵺雲は続ける。
    「簡単に言ってしまえば、妬まれてしまったのかもしれないね! あはは、才能を認めてもらえるのは嬉しいけれど、崖から落とされるのは困っちゃうな」
    「そりゃあ大層なこったな。まあ、そいつに落とし前を付けさせりゃあ済む話か。俺も見ていたしな。……この大事だ、あっちもすぐに言い出すだろうが──」
    「ううん、そうはならないと思う」
     思わず「あ?」と返してしまう。鵺雲は予言者めいた口調のまま続けた。
    「さっき、九条家も戎矢家も共に名家だと言ったよね?」
    「ああ、そうだな」
    「九条家の跡取りを崖から突き落としたなんて言ったら、戎矢はもうその郷土芸能の世界にはいられない。昔はそういったことが多くあったからね。未来永劫爪弾きになる可能性を考えたら、戎矢くんは絶対に言い出せないよ」
     心底残念そうに鵺雲が言う。自分が突き落とされたというのに、まるで被害者が戎矢の方であると言わんばかりだ。
    「なら、どうするつもりだ」
    「突き落とされたけど、犯人の姿はよく見えなかったって言おうかな。あるいは、いい具合に頭を怪我したから覚えていないでも通るかもしれないね」
     鵺雲は気の利いたジョークでも言っているような顔をして、上品な笑い声を上げた。
    「だって、そうだよ。僕が戎矢くんを犯人として名指したら、彼は相当……辛い立場に立たされるだろう。このことはただ単に同じ年頃の少年を突き落としたということより、もっと大きな意味を持つ。代々継いできた戎矢という家名に泥を塗ることになるんだから」
    「なら、お前はこんなことをされてもなお、そいつの家名とやらの為に泣き寝入りするってのか」
     一歩間違えたら死んでしまってもおかしくなかった。戎矢がどれだけ鵺雲を妬み、憎しみを抱いていたかは知らないが、だからといって目の前の少年を殺しかけていいはずがない。それはあまりに自分の存在をぞんざいに扱いすぎている。
     だが、意外なことに鵺雲は首を横に振った。
    「泣き寝入りというわけではないよ。戎矢くんはちゃんと罰を受けるわけだしね」
    「罰?」
    「僕が生き残ってしまった以上、戎矢くんはいつ僕がそれを暴露するかに怯えながら、一生負い目を感じ続けることになる。それは既に大きな枷であり、罰だ」
     その鵺雲の口調は相変わらず穏やかだったが、どことなく恐ろしさを感じさせるものでもあった。
    「それでどうする? 脅してやりでもするつもりか?」
     鵺雲の背後に見え隠れている底の知れない恐ろしさを嗅ぎ取って、夜帳は敢えてそう言った。
     だが、鵺雲の口振りからして、戎矢を単に苛んでやろうとは思っていないような気もしていた。目の前の少年は、そんな無駄なことをしたりはしない。
     なら、恐らくは実利があるのだ。案の定、鵺雲は笑顔で続けた。
    「脅し……そうだね、結果的には脅しになってしまうかもしれない。けれど、僕は真摯に戎矢くんと話し合いをしたいと思ってるんだ」
    「話し合い?」
    「さっきも言った通り、戎矢くんはとても思い詰めていてね。郷土芸能そのものから手を引こうとしていたんだ。醜聞の末に追放されるのではなく、緩やかな引退というわけだね。でも、僕はそのことをとても残念に思っていたんだ」
    「そんだけ追い詰められるくらいなら、手を引きゃいいだろう。そいつはそこまでだ。人生をそれに絡め取られるっつうのは割が合ってねえだろう」
    「戎矢は優れた血を持った家だ。戎矢くんが自分の宿命から逃げ出しても、彼の子供はカミに見初められるかもしれない。だから、彼がこの世界から去ってしまうのは困るんだ」
     カミ、というのは夜帳の知っている神のことだろうか。様々なところで存在を語られる、八百万の神だろうか。
    「だから、逃がすわけにはいかないんだよ。あの様子だと、もう彼は将来的にも関わろうとしなさそうだったからね」
     そこで、鵺雲が意図していることが理解出来た。
     年近い少年を突き落とすまで追い詰められた戎矢は、これでいよいよその郷土芸能の世界から足を洗うことは出来なくなるだろう。何しろ、鵺雲は戎矢が郷土芸能の世界から去ろうとすることを好ましく思っていないのだから。
     もし鵺雲の意に沿わない動きをすれば、戎矢は自分だけではなく連綿と続いてきた家にも迷惑を掛けることになるのだ。鵺雲はこの一件で、最大の交渉材料を得たというわけだ。
    「犯人だって名指しされるのも恐ろしけりゃ、その家柄っつうもんに縛られて自分から名乗り出ることも出来ねえっつうわけか。そりゃあ心苦しいこったな」
     そして、鵺雲はその負い目を適切に転がすことで、戎矢の家を意のままに操ることが出来るようになるわけだ。大きな怪我も無かったことを考えれば上等なものが手に入ったのかもしれないが、随分歪な賭けだ。少なくとも、自分はそこに価値を見出さない。
     何より、と夜帳は思う。この事件の原因は全て戎矢にあるし、罪だって戎矢のものだ。鵺雲は起こったことを最大限に利用しようとしてはいるが、あくまで被害者である。一歩間違えば殺されていたかもしれない。
     なのに、そのこと自体に憤る様子は見えない。まるで、自分が受けた被害を最大の好機であると捉えているかのようだ。死にかけたというのに。殺されかけたというのに。
     気づけば、夜帳の口から言葉が出てきた。
    「気に食わねえな」
    「……ああ、そう? けれど、これは九条家と戎矢家の問題だ。夜帳くんが口を出すようなことじゃないよ」
    「なら、俺も当事者になりゃいいだろう」
     夜帳がそう言うと、鵺雲は初めて表情を変えた。
    「……どういうこと?」
    「この状況からいって、誰かが突き落としたってのは動かねえんだろう。だが、当の戎矢は自分から名乗り出ることは出来ねえときてる。なら、別の犯人が必要ってわけだ」
    「別の犯人……というのは?」
    「つまり、ここで俺が犯人だと名乗り出りゃ、戎矢が自白する必要も、自白せずにお前に未来永劫脅され続けることもねえってわけだ」
     夜帳がそう言うと、鵺雲は分かりやすく難色を示した。
    「だって……そんなの、」
    「生憎と、俺の言葉は信頼されてるからな。事故だったって言やあ信じるだろ。戎矢には言い含めなきゃなんねえだろうが、概ね収まると思うぜ? 何しろ、俺は戎矢と何の関係も無えんだからな。まさかそいつの為に濡れ衣を被るとは思われねえだろ」
     夜帳には自分の言葉を信じさせる自信があった。あとは鵺雲の同意が得られるかどうかだが、仮に彼の同意が得られずとも、鵺雲には夜帳の自白を止める術がない。ここで犯人は戎矢だった、と言うことは、戎矢の家を取り潰されたくない鵺雲の意には反するだろう。
    「分からないな」
     その時、鵺雲が言った。
    「これ以上ねえほど明瞭だと思うが、何が分からない?」
    「それをして、夜帳くんに何の得があるの?」
     鵺雲は心の底から訝しげな顔をして言った。
    「事故ということにするとはいえ、夜帳くんがやったことは大変なことだよ。君はあれだけ尊敬を集めていて、周りからも好かれているのに、どうしてこんなことをしてしまったのかと問われるだろう。でも、君は絶対に本当の理由を明かさないわけだよね。過ちを犯した戎矢くんの為に。そんなことをして、一体何になるの?」
     鵺雲の疑問は尤もではあった。これをしたところで、夜帳が得るものは何も無い。自分は相応の責任を取ることになるだろう。
     だが、夜帳が失うものは戎矢が失うものほど大きくはない。それに夜帳は、自身の影響力と周りからの評価を正しく理解している。
     何を言わずとも事故であったのだろうと──あるいは事情があったのだろうと察せられる立ち位置を利用して、戎矢の矢避けになれるのならば、そちらの方がずっといいはずだ。
     一点、自分が戎矢の為にそこまでする義理がないという部分さえ無視出来れば。
    「失うばかりの選択に、君は一体何を見出してるの」
    「失うばかりじゃあねえな」
     夜帳はそう言うと、しっかりと鵺雲を見据えた。
    「お前の選択や、それに懸かる矜持を頭から否定はしねえよ。だが、否定はしねえ上で、個人的に気に食わねえんだ。だから、俺も同じだけの代償を払って上書きしてやる。俺が下手に手を出したお陰でお前が戎矢の家とやらを思い通りに出来なくなるっつうなら、俺に得るもんはあるだろう」
     気に食わない。夜帳の価値観には反する。このプログラムが終わった暁には、きっと鵺雲と自分は会うこともないだろう。だが、夜帳は崖下に降りてきて、鵺雲がどんな目に遭ったかを──それを利用して何をしようとしているかを知ってしまった。なら、その気に食わない事態を見過ごす選択肢などあるはずもなかった。
    「その為に戎矢くんを庇うの?」
    「その為に戎矢を庇わせてもらうってこったな。巻き込まれた側には申し訳ねえが」
     夜帳がそう言うと、鵺雲は堪えきれないというように笑い出した。
    「……なんか君、すごく変わってるね。僕、夜帳くんのこと結構好きかもしれない」
    「俺はそうでもねえな。お前とはとかく価値観が合わねえ」
    「そうかな。僕、君とはとても似ているような気がするんだけど。きっと君だって、自分の思うままに自分を賭けの舞台に乗せるじゃない」
    「お前、下手すりゃ死ぬところだったわけだろ」
     鵺雲の言葉を遮るように、夜帳が言う。
    「そうだね。そうはならないように努めはしたけれど」
    「それに対する恐怖は無かったのか」
    「恐怖……恐怖か……」
     鵺雲が返答に迷っているようだったので、夜帳は無視して話を進めた。
    「そうして全霊を懸けたのは、てめえの家が継いできた芸能の技の為だという。いいや、それも正確じゃねえか。お前は戎矢の家の行く末まで慮ってんだからな」
    「そうだね。九条家の舞は素晴らしいけれど、この家だけが残っても発展は見込めない」
    「大層なことだ。なら、お前自身の我は──欲望は何だ?」
     そう問われた鵺雲は、一瞬何を問われたのか分からない顔をして目を瞬かせた。
    「どういうこと?」
    「俺はどんな状況であろうと、俺自身の欲に従う。生きるも死ぬも俺の心のままだ。お前はどうだ、九条鵺雲」
    「僕は九条家を──ひいてはカミへの儀を発展させることを念頭に置いているけれど」
    「それは九条家とやらに生まれたもんとしての我か? それとも、お前の選び取った欲望か?」
    「それを区別することに何の意味があると?」
     鵺雲は真っ向から夜帳の言葉を受け止めると、そう言って微笑みかけた。けして強く拒絶されたわけではないのに、価値観の深い断絶を感じる。夜帳とは別の方向での我が強い。
    「──ふふ、夜帳くんって面白いね。そんなことを尋ねられたのは生まれて初めてだよ。君はきっと欲深い人間なんだろうけれど、他人にもかくあれと望むだなんて」
     そう言ってから、鵺雲はゆっくりと頷いた。
    「君に見つかったのが不運だったみたいだね。うん、負けたよ。君が貫こうとする意思を邪魔立て出来るような器量は僕には無いみたい。僕も君に話を合わせるよ」
    「ご協力に感謝するぜ、共犯者殿」
    「被害者である僕がこんなことに加担するなんて、ちょっと変な感じもするけれど」
    「この状況以上に変なものもねえよ」
    「ああ、そうだ。さっきの、死ぬことに躊躇いが無いのかという話だけど。うん、僕だってごく一般的な人間のように死への恐れは抱いているよ。けれど、他の人間よりはずっと恐ろしくない」
     鵺雲がそう言って、ゆっくりと微笑んだ。
    「だって僕には比鷺がいるから」
    「比鷺?」
    「弟だよ。九条比鷺。比鷺はまだ幼いんだけれどね、もう既に僕ととっても似ているんだ。僕が死んだとしても、九条家には比鷺がいる。だから、仮に僕が死んでしまったとしても──九条家は終わらない」
     つくづく自分の血を──あるいは自分の属している家への矜持に満ちている。彼にとっては自分自身ですらも家を存続する為のパーツでしかないのだろう。まるで我が見えず、もしくは我そのものがその矜持である男は、どこまでも一貫している。
     惑うことなく自身を捧げるその様は、ある種では我が強いとも言えるのかもしれないが、運命論者的なその口調と、彼の持つただならぬ雰囲気が夜帳に疑念を抱かせる。少なくとも、夜帳が好きな我の在り方ではない。弟のことを自分の血を継ぐ複製として見做している部分も相容れなかった。
    「お前は徹底してんな。そういった部分だけは好ましい」
    「きっと夜帳くんも気に入るよ。比鷺は舞が上手くて格好良くて可愛くて、こんな僕にもすっごく優しくて、本当に素敵な弟なんだ。一目見たら大好きになっちゃうよ。あっでも、ひーちゃんは僕にべったりだから知らない人とは話したがらないかもね。でも、そういうところもとても奥ゆかしくてチャームポイントであるっていうか。あっ、だからこそ僕が紹介してあげようか? ひーちゃんは僕の言うことだったら雛鳥のように聞き入れてくれるから、きっと仲良くなれるんじゃないかなって」
     急に早口になった鵺雲に対し、夜帳は少しだけ驚く。さっきまでとはまた違った表情は、年相応のものに見える。
    「お前に引き合わせてもらおうとは思わねえな。縁があれば会うだろう。無けりゃそれまでだ。俺がそいつを好ましく思うかも分からねえしな」
    「縁ね……縁か」
     鵺雲はそこで少し、考え込むような顔をした。そして、彼の手が少しだけ露わになった鎖骨に触れる。刺青のような、そうと言い切るには異質な痣が──長い指でなぞられる。そのまま託宣のように言う。
    「きっと、才ある君は然るべき時に見初められるだろう。そうしたらいつか、僕と一緒に組まない?」
    「気が乗らねえな。俺とお前で何をするんだ?」
    「君と僕はよく似ているから。恐らくは同じ目的を持つことになる。君だって、至高の舞台を見てみたいはずだ」
     至高の舞台とは一体何だろうか。夜帳はアルトゥール・ディアベリのオルガン演奏を素晴らしい人類の至宝だと思っている。年を経るごとに洗練されていくあの音の果てが聴いてみたいと思っている。
     では、アルトゥールがやがて辿り着く境地こそが至高の舞台だろうか? いずれは太陽に翼を溶かされる人間が、寿命というものに足を取られるしかない人間が、限られた中で最大限に掴み取る一夜の夢を、至高と呼んでいいものだろうか?
     夜帳にはまだ分からない。両親のことは共にある種の芸術家だと思っているが、彼らは鵺雲の言う至高の舞台を奉じることになるのだろうか。ややあって、夜帳は言う。
    「お前なら、俺を至高の舞台に立たせられるってのか?」
    「ああ、他に比することの出来ない場所に、必ず」
     鵺雲の言葉は単なる虚勢ではなく、確信に満ちていた。
     それでも、自分は彼の手を取らないだろうという気にもなった。一体、見初められるということがどういうことなのかも、彼の言う舞台がどんなものかも想像がつかなかったが、萬燈夜帳の至高の舞台は自分自身が選び取るものだ。たとえ、本当に鵺雲と自分が似ているのだとしても、似ているからこそ別の舞台に立つのではないだろうか。
     夜帳は少しだけ笑ってから、言う。
    「縁があったらな」
    「つれないね、夜帳くん。そういえば、夜帳くんって何年生? 僕は二年生だけど」
    「なら、俺のが先輩だな」
    「そうなんだ。じゃあ、夜帳先輩? 萬燈先輩って呼ぶ方がいいのかな」
    「好きにしろ、九条鵺雲」
     そう言って、夜帳は立ち上がる。そろそろ上に戻って、助けを呼びに行くべきだろう。登れる道を探している時に、遠くで雷鳴が聞こえた。
    「おっと、雷だね」
     鵺雲が、よく通る声で言った。
    「濡れる前にはケリをつけてやるよ」
    「あはは、ありがとう」
     その時、夜帳の頭に浮かんだのは母親のアトリエか何かで見た鵺の図だった。歌川国芳の描いたそれで、鵺は稲妻と共に描かれていた。──神という字の申の部分は稲妻を意味する。人間には不可知の異形の力、形の与えられぬ大いなる自然の力。
     だとすれば、不定の怪に名前を付けた鵺は──雷と関連付けられる化物との近似は──……何なのだろう?

     それからの話を簡潔に纏めると以下のようになる。九条鵺雲は無事に助け出され、身体に大事至らず回復した。そして、萬燈夜帳はケジメを付ける意味で通っていた私立中学を退学することになった。これは夜帳が詳細を語らず、責任は自らにあると言い張ったことにある。
     学校代表として送り出した生徒が起こしてしまった事故に対し、学校側も対応に困っていたようだ。今までの夜帳の生活態度を見て、擁護する声は沢山あったが、退学はむしろ夜帳の側が申し出た。そうしてしまった方が、全てにおいてすっきりと終わる。九条家の方も鵺雲がそれなりの便宜を図ったのだろう。退学という分かりやすい禊を済ませることで、それ以上は求めないと言ってきた。
     全ては分かりやすい決着が必要なのだ。
     同級生はおろか後輩も夜帳の退学を悲しみ、どうにか学校に残れないかを画策していた。それに対し、萬燈は「一、二年も一緒にいてやっただろうが」と軽口を叩いてみせた。それで、全てが穏便に済んでしまった。萬燈夜帳が決めたことに反対出来る人間なんかいないのだ。
     両親の反応は二者それぞれだった。母親の昼女は黙って頷くばかりであったし、某大学で教鞭をとっている父親の呉朗はそれなりに心配であったようで、それとなく夜帳を自身の勤めている大学に誘う回数が増えた。夜帳は彼を心配させないよう、何度か連れ立って大学に出かけた。
     音楽は相変わらず興味の対象だったが、父親に連れられて大学に出入りするようになってからは、言語の方に軸を移した。
     そして夜帳は、十七歳の頃に初めての小説『塔屋の夜』を完成させ、小説家としてのキャリアを開始させた。
     七作目に書いた小説──『鵺の灰』は、伝承に語られる鵺と、不詳の芸術家の生涯を関連させて書き上げた年代記である。鵺を題材に取った理由を、萬燈夜帳は中学生の頃の事件を語らないのと同じように、語らない。







    著:斜線堂有紀

    この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


    当ブロマガの内容、テキスト、画像等の無断転載・無断使用を固く禁じます。
    Unauthorized copying and replication of the contents of this blog, text and images are strictly prohibited.

    ©神神化身/ⅡⅤ