皆様、こんにちは 協栄ボクシングジムの金平桂一郎です
今回は、前回まで、お話をしていました、初代チャンピオンの海老原博幸・西城正三・具志堅用高先輩に至る、協栄ジムと先代正紀の歩みを通して、若く、資金も人脈も無かった、若いジム経営者とそれに着いていった世界チャンピオン達のサクセスストーリーを第一期協栄ジム黄金時代としてまとめてお話いたします。 先ず、海老原博幸さんが世界チャンピオンになった、1693年9月当時、金平正紀は正確には、金平ジムの会長ではありませんでした。 当時の新聞紙面を確認すれば分かりますが、当時は金平ジム金平正記マネージャーと表記されています。 それでは、金平ジムの会長は誰だったかと言いますと、中目黒に有った竹内鉄工所の竹内社長が会長として、新聞紙面にも出ておりました。 何故、金平ジムなのに、金平正記が会長ではないのか? ここに、先代正紀の知恵を見つける事が出来ます。 初回から、申し上げている、金平正紀と協栄ジムの奇跡とは、創業時まだ26才の若僧に過ぎなかった、父正紀の苦心と行幸が折り重なり出来上がった、ストーリーなのです。 因みに、父の名前も海老原博幸さんが、世界チャンピオンになった当時の正記と西城正三さんが世界を獲った以降の正紀を併記しています。 さておき、上記に在る通り、先代正紀は会長という名誉も御世話になっている、竹内社長に譲る形で、経営基盤を安定させながら、海老原博幸さんに、人生をかけたのです。 書けば簡単ですが、取り分けて、最初のバックボーンを得るには、持てる知恵を総動員して、金平ジムの設立にこぎ着けたのです。 ここで大切なのは、竹内ジムではなく、名称は金平ジムであることで、もしも、竹内ジムで発足していたら、未来永劫金平ジムの所属選手としての海老原博幸も若き天才マネージャー金平正紀も存在しませんでした。 譲ることの出来る点は、目一杯譲るが、ここから先は譲らない! これは、創業を志す者や経営者皆が胆に命ずる事の第一歩なのではないでしょうか。 続きは、次号にて 次回、ニコニコ生中継は、12日金曜日の21時30分より行います。
金平桂一郎の興行師のひとりごと
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