「こういうとき、時間が経つのって遅いんだな」
遠野有香は、頭の中で妙に冷静に考えていた。
祐天寺駅から歩いて10分。住宅街に差しかかろうという静かなエリアに佇む、このカフェは、有香のお気に入りの店だった。女友達と時間を忘れておしゃべりをしたり、ひとりで本を読んだり。裕司とも何度かランチやお茶に来たことがある、いわば「思い出の場所」。
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裕司とは大学生の頃から3年の付き合いになる。大勢いるサークル仲間のひとり。最初はそんな存在だった。サークルの華だった有香に、ド直球で3回も交際を申し込んだ男。なんか憎めないな。そう思って付き合うようになった。
そんな裕司が目の前で「別れて欲しい」と言っている。重々しく発せられた言葉はテーブルに落ちたまま。30分経っても、この状況にどう向き合ったらいいのか、有香はわからなかった。
うまくやっていたつもりだった。好きでい続けてくれる自信もあった。もし別れることがあるなら切り出すのはわたしだろう。そう思っていた。
有香は大手メーカーで営業職をやっている。社会人になってからは、仕事もプライベートも、うまくいかないことが続いた。新入社員というのは、スクールカーストの最下層より辛い立場なのだということを思い知らされる日々だった。
仕事で疲れ切った帰り道。有香はよく大学時代のことを思い出す。学園祭でタレントを起用したトークイベントは大盛況。4年生の夏休みには勢いのあるベンチャー企業でインターンを経験。読者モデルだってかじったし、年上の男たちにちやほやもされた。
うまくいくコツのようなものを心得ている。有香は自分のことをそんなふうに思っていた。うしろを振り返らず、キラキラした渦のなかにいる自分を手放しで楽しめる――。たった1年前のことなのに、過去の自分がうらやましかった。
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「なんで裕司が......」
思わずため息をこぼしたところで、「あの」と声をかけられ、有香はハッとした。見上げると、カフェの女性店員がやさしく微笑みかけている。
「よかったらミルクティーのお代わりでも、と思って」
この場に不釣り合いなほどやわらかい笑顔で、女性店員は言う。その笑顔と言葉に、有香は思わず涙がこぼれそうになった。
イラスト/MIYUKI OHASHI
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