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こんにちは、すすろです。
今日は、小説の正しい読み方というものについて語りたいと思います。
「小説の正しい読み方」などというと、そんなものがあるはずがない、と言う人がいるでしょう。
それはもっともな意見であると思います。
実は僕も同意見であり、そのようなものはないと考えます。
しかし、そう言うと、今度はそれに対する反論がある人もいるでしょう。
「小説には正しい読み方がある。少なくとも間違った読み方は存在する」と。
実はこの意見も、もっともです。
第一、国語の試験、入試には、小説が出題されます。
それは試験ですから、正解と不正解が存在します。
すなわち「小説の正しい読み方」が存在するということになります。
しかしこれに対しては、こう言えるでしょう。
「国語教育における小説の正しい読み方」が存在する、と。
つまり、国語の授業や大学入試といった場では、小説を読むときに、ある一定の、「正しい」読み方があるということです。
これに関しては、納得していただけると思います。
でも、小説を読むというのは、国語の授業や入試のためばかりではありません。
国語教育と関係ない場で、小説を読むことはたくさんあります。
とくに、娯楽のために読むときには、「正しい」読み方などは、ないと考えられます。
では、次のような読み方はどうでしょうか。この読み方は間違っていると思いますか。
国語教育の場ではなく、娯楽のために読む場合を考えてください。
『西遊記』を読むとき、孫悟空を猿ではなく、人間として読む。
『オズの魔法使い』を読むとき、主人公ドロシーを、少女ではなく、少年として読む。
『こころ』を読むとき、舞台を明治時代ではなく、現代だとして読む。
このような例をあげると、それは間違った読み方だ、と思う人もいるのではないでしょうか。
なぜなら、孫悟空は猿である、と『西遊記』の文章に明確に書いてあるからです。
書いてあるにもかかわらず、その記述を無視して、「孫悟空は人間である」といった間違った設定を勝手に作っているからです。
しかも、その「間違った設定」を維持しつつ読み進めるためには、常に「間違った読み方」を繰り返していかなければなりません。
たとえば、「孫悟空は毛むくじゃらの体を…」などという、孫悟空は猿であるという設定に基づいた記述が出てきたとしましょう。
そうしたら、「孫悟空人間設定」で読んでいる人は、その記述を、頭の中で書きかえなければいけなくなります。
つまり、「孫悟空はその体を…」というように、「毛むくじゃら」という記述をなかったことにして読んでいくことになります。
この読み方を許すと、どれだけでも自由に小説の内容を、頭の中で書きかえながら読んでいいということになります。
孫悟空だけでなく、八戒や沙悟浄も人間に、それもイケメンにして、服装も今風のおしゃれな服装という設定にしましょう。
こんなふうにしていくと、書き換える箇所はどんどん多くなり、もはやそのイメージは『西遊記』とは別作品になってしまいます。
上記のような読み方は、もはや、『西遊記』という作品を読むというより、『西遊記』という素材を元に創作を行っているようなものです。
しかしこういう読みも、決して間違いではないと思います。
娯楽のために読むのだから、自分が楽しめるように読めばいいと思うのです。
不細工な猿が活躍する話より、イケメンが活躍する話のほうが楽しめるなら、そのように『西遊記』を読めばいいと思います。
しかし当然ですが、正しく文章を読み取る能力をつけることは必要です。
つまり、『西遊記』を読んで、
「孫悟空は猿であるということを理解できず、人間だと思っている」
のでは問題があり、あくまでも
「孫悟空が猿であると書かれているのは理解できるが、あえて人間だと読み替える」
という状況であることが、必要だと思います。
今日は、小説の正しい読み方というものについて語りたいと思います。
「小説の正しい読み方」などというと、そんなものがあるはずがない、と言う人がいるでしょう。
それはもっともな意見であると思います。
実は僕も同意見であり、そのようなものはないと考えます。
しかし、そう言うと、今度はそれに対する反論がある人もいるでしょう。
「小説には正しい読み方がある。少なくとも間違った読み方は存在する」と。
実はこの意見も、もっともです。
第一、国語の試験、入試には、小説が出題されます。
それは試験ですから、正解と不正解が存在します。
すなわち「小説の正しい読み方」が存在するということになります。
しかしこれに対しては、こう言えるでしょう。
「国語教育における小説の正しい読み方」が存在する、と。
つまり、国語の授業や大学入試といった場では、小説を読むときに、ある一定の、「正しい」読み方があるということです。
これに関しては、納得していただけると思います。
でも、小説を読むというのは、国語の授業や入試のためばかりではありません。
国語教育と関係ない場で、小説を読むことはたくさんあります。
とくに、娯楽のために読むときには、「正しい」読み方などは、ないと考えられます。
では、次のような読み方はどうでしょうか。この読み方は間違っていると思いますか。
国語教育の場ではなく、娯楽のために読む場合を考えてください。
『西遊記』を読むとき、孫悟空を猿ではなく、人間として読む。
『オズの魔法使い』を読むとき、主人公ドロシーを、少女ではなく、少年として読む。
『こころ』を読むとき、舞台を明治時代ではなく、現代だとして読む。
このような例をあげると、それは間違った読み方だ、と思う人もいるのではないでしょうか。
なぜなら、孫悟空は猿である、と『西遊記』の文章に明確に書いてあるからです。
書いてあるにもかかわらず、その記述を無視して、「孫悟空は人間である」といった間違った設定を勝手に作っているからです。
しかも、その「間違った設定」を維持しつつ読み進めるためには、常に「間違った読み方」を繰り返していかなければなりません。
たとえば、「孫悟空は毛むくじゃらの体を…」などという、孫悟空は猿であるという設定に基づいた記述が出てきたとしましょう。
そうしたら、「孫悟空人間設定」で読んでいる人は、その記述を、頭の中で書きかえなければいけなくなります。
つまり、「孫悟空はその体を…」というように、「毛むくじゃら」という記述をなかったことにして読んでいくことになります。
この読み方を許すと、どれだけでも自由に小説の内容を、頭の中で書きかえながら読んでいいということになります。
孫悟空だけでなく、八戒や沙悟浄も人間に、それもイケメンにして、服装も今風のおしゃれな服装という設定にしましょう。
こんなふうにしていくと、書き換える箇所はどんどん多くなり、もはやそのイメージは『西遊記』とは別作品になってしまいます。
上記のような読み方は、もはや、『西遊記』という作品を読むというより、『西遊記』という素材を元に創作を行っているようなものです。
しかしこういう読みも、決して間違いではないと思います。
娯楽のために読むのだから、自分が楽しめるように読めばいいと思うのです。
不細工な猿が活躍する話より、イケメンが活躍する話のほうが楽しめるなら、そのように『西遊記』を読めばいいと思います。
しかし当然ですが、正しく文章を読み取る能力をつけることは必要です。
つまり、『西遊記』を読んで、
「孫悟空は猿であるということを理解できず、人間だと思っている」
のでは問題があり、あくまでも
「孫悟空が猿であると書かれているのは理解できるが、あえて人間だと読み替える」
という状況であることが、必要だと思います。