「努力」はオワコン、代わりに「やり抜く技術」を学ぶ社会に(その1) のつづきです。
「やりぬく力」を考える前に、もう一つ、子供の学習のしかたがどれだけバラエティに富んでいるか例を紹介しようと思います。
これは何人かの塾の先生が実際に体験したことを元に作った半分実話、半分創作です。
A君は、決して算数が得意なわけではありませんが、小学生の時、□を使った式問題は理解が早かったと言います。
3 × □ = 6
というような問題があれば、すぐに「2」と答えられたのです。
ところが中学になったとき、A君はつまづきます。
3x = 6
という方程式には、 x = 2 と答えますが、
7x = 6
という方程式は「答えがない」というのです。
実はA君は、見たものをぱっと覚えるのが得意なタイプで、漢字は見ればすぐにその漢字を書いて再現することができます。なので漢字は得意なものとして親や先生は気を払っていませんでしたが、実は書き順はめちゃめちゃだったのです。それから苦労して書き順を覚え直さなくてはいけませんでした。
□を使った式のときにも、同じようなことが起こっていました。どうやら、A君は 3 × □ = 6 を見ると、一瞬で
3 × 2 = 6
と答えの入った式が浮かんでいたようなのです。頭の中で、 6÷3 を通らずに答えが出てくるのです。
ですから、中学に入り、3x = 6 は問題ないのですが、7x = 6 を見た時、そこに入る数字がなく「答えがない」ことになってしまったのです。
この事例でいくつか興味深い点があります。
一つ目は、A君にとって、
3 × □ = 6
は努力なしに理解できる問題だという点。この問題を解く時A君は考えていなかったそうです。わかっちゃうのです。
もう一点は、それゆえに、A君はかえって落とし穴にはまってしまった点です。
こんな風に子供が物事を理解する過程は多様ですから、つまづき方も多様です。(その1)で紹介したように、「字を丁寧に書くから」つまづく子だっているのです。
ですから、私たち社会はまだまだいろんな教材も必要だし、子供がつまづいてないかを見抜くツールも必要です。小三でつまづいた子は中三になったとき、学力は中二レベルではなく小三レベルのままになりかねません。この少子化の世の中、社会はそんな損失を放っておけません。
そのためには子供がつまづく事例をどんどん収集しなければなりません。eラーニングが注目されている理由の一つです。さらにその理由を解析し、その子がつまづきそうになったら、すかさずその子にとって「努力せず」に理解できる教え方に切り替えなければなりません。
「努力せず」に引っかかる人もいるかもしれませんが、それなら「その子が理解できる方法で」でもいいかもしれません。ある教え方では、どんなに「努力しても」その子には理解できないかもしれません。
誰にでもある経験ではないでしょうか。あの先生の教え方ではちんぷんかんぷんだったけど、この先生になったらその教科が好きになるくらいわかったということが。ある人にとって、どんなに努力しても分からない教え方と、すらすらわかるわかる教え方はありますが、その間というのはそれほど多くありません。
つまり、「努力せよ」と子供を変えようとするよりも、こちらが手を替え品を替えた方が「手っ取り早い」のです。自分の子供もそうです。ちょっと与えてみて、食いつかなければ別のものを考える方が、無理強いするよりよほど楽です。
さらに、自分自身の問題に還元するのであれば、必死に「努力」しているのに伸びないとか辛いのであれば、やり方が悪いか、才能がないかと考えた方が手っ取り早いのです。
私は学生の頃英会話教室とやらに入ってもちっとも続きませんでしたが、その後、NHKラジオの英語講座は3つ同時にずっと続きました(その一人遠山顕さんがいまだに現役と最近知り驚愕しています。多分アンドロイドです)。当時はラジカセのタイマーを使って、カセットテープに録音し、それをウォークマンにセットして通学の電車で聞くというスタイルでした。3つをきちんと録音するのはなかなか大変です。でも、「努力」したとかあんまり思ってません。自然と続いたのです。
子供が私から見て努力していれば、「すごい!」と褒めますが、「努力」を強いるのはあまり益がありません。
結果として人から「努力してるね」と感嘆してもらえることはあっても、本人は別にそんなにと思っています。
努力を強いるとか、無理して努力するとかは、元がとれない。
ということがじわじわと知られるようになっているのです。
(つづく)
《ワンポイントミライ》(?)
ミライ: 所ジョージさんの名言「苦労とか努力っていう人はたぶん才能ないんだと思う」ってやつですね。
フツクロウ: ホッホ。いやいや、そこまで単純じゃないという話じゃないかの。