いつもとちょっと違う水曜、今回は気楽に書き始める記事[S]です。
この記事を読んで呆然としました。
人材開発の世界を支配する「気づき信仰」と「自律信仰」!?
人材開発の世界は、いわば「気づき」信仰に充ち満ちています。「気づくこと」がよいことで「教えること」は悪いこととされます。
真剣に言いますが、この記事を読んだ時、最初意味が全くわかりませんでした。
この記事がひどいということではなくて、
「気づくこと」がよいことで「教えること」は悪いこと
とされる世界があることにまったく気が向いていませんでした。
言われてみればあれですね。
小学校で三角形の面積を教える時に、いきなり公式を教えるのではなくて、なんとかして生徒にその式を気づかせようとするっていうやりかたがあると聞いていますが、それはこの
「気づくこと」がよいことというのに基づいているわけですね。
なんか変な教え方があるもんだなと思ってましたが、なるほど「気づき」信仰なんてものがあったんですね。
「人材開発」と言われるとあまり詳しくないので、教育に置き換えて考えますけど、「教える」と「気づき」は二項対立するようなものではなくてまったく別物です。
生徒っていうのは、実はいっぱい「気付いて」います。
たまたま昨日のことですけど、次男が「カブトムシのツノは7本ある」と言い出しました。「はあ?なんで?」と理由を聞きました。・・なるほど。その聞き取りの結果、彼がどういう風にツノを数えたかを図示したのがこれです。
なるほど。「ま、俺はそういう風には数えないけどね」と釘を刺しつつ、心中とても愉快でした。その調子で分岐したら次はいくつかとかいろいろ楽しそうですよね。
でも、三角形の面積をむりやり気づかせる話は、実際に見てないのでまだ判断できないのですが、懐疑的に感じています。
なぜなら、そこには「正解となる『気づき』がただ一つしかない」からです。「気づき」を重視したいなら、そういうアクティビティを別にやるべきで、「正解の気づき」以外をすべて切り捨てなければならないときに使う手法ではありません。
たとえば私は「気づく」ために「調べまくり」ます。「教わる」ときには「教わりたい」し、それが私から気づき奪わないどころかむしろ促進します。
ただ、一方的にひたすら教え込むのが単調なので、簡単な気づきを織り交ぜるとかはあるでしょう。
いずれにせよ、「気づき」と「教える」が二項対立というのは、同意できません。まったく別物です。元記事がいうように両者は矛盾しません。
昔の教育は「教える」ことに傾倒して、「気づき」をあまり許してなかったのかもしれません。むしろそんな発言は問題扱いなこともあったでしょう。
その反省なのかもしれませんが、間違っているものは間違っています。「気づき」と「教える」は二項対立になるペアではありません。
《ワンポイントミライ》(?)
ミライ: 元の記事は、その二項対立を超えていけ、って話ですね。
フツクロウ: ホウじゃの。
そのあとの例で出てくる「自律」と「管理」もそもそも二項対立じゃないの。
確かにそれらは超えんといかんの。