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この記事は後半【馬車目線】(?)でお送りします。
先日、東京の青山で打ち合わせがありました。最寄り駅は表参道でしたが、15分程離れている渋谷駅まで歩きました。そこそこ暑い日で汗もかきましたが、その後の新幹線で飲んだビールは格別です。
品川のホームに売店がないことを忘れていて、でも階段戻って買う時間がなく、車内販売が来ることになる1時間後までお預けになったのでなおさらです。
たった15分のウォーキングで得られたこの幸せ、「費用対効果」ならぬ、「苦労対効果」は抜群です。
一方「苦労対効果」の悪いものもあります。私の両親は1969年生まれの私を連れて、1970年の大阪万博に行って、「月の石」を見せてくれたそうです。もちろん全く覚えていません。が、ものすごい混んだそうです。後から当時の映像を見たこともありますが、確かにものすごい、今ある混雑よりもすさまじい混雑です。
なので、親は、成長する私にことあるごとに「苦労して万博に連れて行ってやったんだぞ」と恩着せがましく言うのですが、有り体に言って、物心のついてなかった私にはなんの価値もありません(苦笑
余りの苦労に、何度も私に言わなければ、元が取れなかったのでしょう。苦労に見合った価値はあったのでしょうか。
もちろん「月の石」なんて当時滅多に見られるものではなかったですし、今でも国立科学博物館などに行かなければ見ることはできません。確かに、ものすごい価値があることですが、そのために苦労しすぎたと思うようでは、そこまでする価値はなかったということでしょう。もう少し価値が低くても、もっと楽な方法で高い「苦労対効果」が得られるものをたくさん楽しむのもアリではないでしょうか。
そうすれば、「もっと評価されるべき」ものが利用されることになって、社会はより豊かになりそうです。
では、現代版「苦労対効果」が低いものにはなにがあるでしょうか。また「苦労対効果」をあげるにはどうしたらいいでしょうか。またその社会的な効果は。
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