今日は火曜日ですが、短い記事[S]です。明日水曜日は通常で。

 直接右脳の話ではないのですが、瞑想とか調べているうちに、ふと過去話題にしたことが気になりました。

 「無条件(?)な愛情や承認」を受けた人が人を愛せるようになるには  

という記事で、人を愛せるようになるにはというテーマで次のように書きました。

受け入れる、寄り添う 
 「人を愛するには」と書きながら、考えてたら、愛するってなんなんのか、やっぱり全然分からなくなってしまいました。やっぱり西洋的な考え方なんでしょうか。「愛しく思う」くらいがいいのかもしれません。
 いつかそれがわかることもあるかもしれませんが、それまでは、仲間をあるがままに受け入れたり、さらに大切な人には寄り添ってみるくらいを目指してはいかがでしょう。 
 他人の姿を見るのは簡単でも自分の姿は鏡がないと見えないように、自分を受け入れたり、寄り添ったり、さらには愛すること、より、他人を受け入れたりする方が簡単です。他人から始められるなら、自分を愛すために、まず他人を受け入れましょう。 

向き合わず寄り添う 
 次男はたまに保育園に行きたがらず、立ち尽くすことがあります。そんな時は隣に立って、手をつないでいると、そのうち歩き出してくれることもあります。気持ちの上でも、人と向き合うのでなく寄り添うほうがうまくいくことが多いようです。自分自身でも同じです。「自分と向き合う」という言葉がありますが、向き合ってしまうと動けなくなります。自分と向かい合って問いつめるのではなく、寄り添って、進もうとしたら一緒に歩む、必要なら少し違う方向をアドバイスしてみるほうが、うまくいくことが多いようです。

 「自分と向き合う」という言葉は、普段何気なく使われてしまっていますが、安易にすべきことではありません。「自分と向き合って」何をするのでしょうか。「おまえ、それじゃだめだよ。もっとかんばんなきゃ」って説教するのでしょうか。もしこんなこと他人に言われたら、「おまえに言われなくても、そんなこと、わかってるよ」と拒絶反応起こすことだってありますから、自分が自分に面と向かって言ってもやっぱり自分で自分を拒絶してしまうかもしれません。なので、自分に向き合うのではなく、自分に寄り添うのがよいのではないか、そう以前は書きました。

 一方、最近、右脳の話をきっかけに調べ始めた瞑想やら座禅は、その究極では神秘的な右脳のイメージを見ることができるようですが、そこまで到達できる人はごく一部です。では、瞑想やら座禅に意味がないのかというとそんなことはないはずです。

 ふと、その時間は「自分と静かに向き合う時間」なのではないかと思いました。