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「見たいものはいくらでも見える」という話
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「見たいものはいくらでも見える」という話

2014-09-26 23:30

     前回、こんなタイトルで、

     【馬】どの新聞が先に報道したかなんて、誤報に比べたら些末なんですけど。  

    人間には「見たいものを見てしまう」癖がある話をしたのですが、そういえばこの件について私はなかなかできない体験をしていることをさっき思い出したので、ご紹介しようと思います。

     私は、大学院で光学をやっていました。とにかく真っ暗にした暗室の中で実験をします。

     ですから、暗闇には慣れてます。話し逸れますけど、とはいっても、実験で何かをみるために暗闇にするわけで、暗闇の中でも実験対象を光らせたり、そうでないときは小さい灯りでもぞもぞしたりします。なので、Dialog in the Dark という真っ暗の中を経験するイベントに出た時は、長い時間ずっと真っ暗闇で、もう本当に実に楽しい経験でした。

     最後の方で喫茶店でドリンクを頂くのですが、ワインを頼んだら、飲んでも白か赤か本当に分からなくて、どっちですかと聞いたら、どっちだと思いますか?と小悪魔な笑いを返されたのを良く覚えています。

     閑話休題。

     で、その暗闇の中で実験をするわけです。レーザー光をミラーやレンズやらであれこれして、最後そのパターンを見るわけですが、まあ最先端の結果を得ようとするわけですから、それはとても暗いです(はっきり明るいならとうの昔に誰かができている)。

     するとですね。実験がうまくいっていなくても、うまくいった時に見えるはずのパターンというのが、いくらでも見えます。真っ暗な中で、出てくるはずのパターン、でも見えるか見えないかくらいの暗いパターンが、出てこい出てこいと思って見ていると本当に出てくるのです。

     そもそも、レーザーをつけた段階で見える普段のパターン(期待されるパターンはその中に埋もれるように出てくる)というのが見えてるわけですが、レーザーをつけなくてもそれはいくらでも見えます(笑

     ちなみに、うまくいった時よりはずっと暗いけど、実際にそのパターンが出ているときもあります。ちょっとだけうまくいっているわけです。

     もう、自分の目がいかに信じられないかということを徹底的に思い知らされました。最初、自分の目では見るけど、そのときは何も判断せず、とりあえず淡々と測定をして、それからはじめてその実験がうまくいっているかを考えるようになります。
     あるいは、もちろんうまくいくことを期待して実験を考えて始めるわけですが、その瞬間は、別人になって、つまり他人に、「ちょっとこういう実験をして測定結果教えて」と言われたことにして、機械的に実験しようとします。

     つまり、もうとにかく「見たいものはいくらでも見え」て仕方ないので、もうその影響を排除するためにいろんな工夫をしなければならないのです。

     (じゃあ、見ずに測定だけすればいいじゃんと思うかもしれませんが、機械が測定するのは直接の目標とする部分的な値の測定が中心で、もしかすると、でたらめなことが起こっているかもしれないし、測定では出てこないなにか新しい現象が起こっているかもしれないので、目で見ることもとても大切なことでした。)

     ですから、最先端の実験をしたり、とんでもない新聞特ダネを手にした人は、落ち着いて検証する時間が必要です。「見たいものを見て」しまっていないかを確認する時間が必要なのです。いくら社会が加速しても、この時間を短縮することは簡単にはできません。 
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