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「努力は報われない」問題を未来のために「目の前ニンジン」で整理しておく(その1)
の続きです。
ゲームが発達したことで、ゲーミフィケーションという手法が普及し、退屈な学習ですら楽しく学べるようになってきました。その瞬間瞬間に適切な「目の前ニンジン」をぶら下げる技術が発展しているのです。
一方で人々の働き方は変わっています。今日は何時間工場で働いて何個製品ができましたという、労働の成果が見えやすい仕事はどんどん機械に置き換わっています。その代わり人間に残されている仕事は、新しいアイデアとか創造的な仕事とか、調子良ければどんどん成果が出るけど、スランプの時にはなにをやっても上手くいかないみたいな仕事です。
現代人はこの環境とうまく付き合わなければならないのです。この問題を整理してうまく付き合うとするならば、「努力は報われない」問題はささいな問題に変わることでしょう。
すべての消費活動は「目の前ニンジン」付きになる
「目の前ニンジン」問題の今後のもっとも大きな影響は、あらゆる消費活動に「目の前ニンジン」が整備されていくということです。いわゆる習い事などもそうなるでしょう。学校ですらそうなりつつあります。45分の授業でいったいどんな成果があったのか、授業の最後に確認しています。
つまり日常生活でなにか商品やサービスを消費するということは、短期的にはその「目の前ニンジン」を消費する活動になります。1年365日、ヒトはいろんなものを消費しますが、その度にヒトは「今このニンジンを食べた」という満足を得ることになります。
逆にそういうその場で得られる「目の前ニンジン」がなければ、「これなんなの?今これやってなんの得があったの?」と問われることになります。まずは1週間続けてみてくださいみたいな商品・サービスは旗色が悪くなります。そのような商品はどのように最初から「目の前ニンジン」を体験させるかに腐心させることになるでしょう。(その1)の後半で紹介した座禅のように。
そうやって、商品の「目の前ニンジン」化は加速度的に進み、「目の前ニンジン」のない商品は例外的な好き者向けのニッチな市場にだけ追いやられることでしょう。
私たちは自発的に「目の前ニンジン」のないチャレンジが必要になる
かつて根性や忍耐という言葉の元、あるいはしごきの中で、私たちは「目の前ニンジン」のない鍛錬を受ける機会がありました。
でも、そんな商品・サービス(習い事)・教育は減っていきます。親に無理やり入れさせられている塾なんてのもだんだん流行らなくなるでしょう。
しかし、これから社会に出て働くということは「目の前ニンジン」がないことに取り組むことに他なりません。社会に出るまで消費活動しかしてなければ、そういうおいしい「目の前ニンジン」が用意してあることばかりしていることになり、社会に出ていきなり「目の前ニンジン」がない課題に取り組むなど、途方もなく困難な活動に感じられることでしょう。
「努力は報われるのか」という話題が頻発するのは、まさにこの壁が姿を変えて現れていることに他なりません。
私たちは日々、おいしい「目の前ニンジン」の用意された消費活動を楽しみながらも、それ以外のところで「目の前ニンジン」のない活動に慣れておかなければならないのです。
お店の人はお客としてみんなやさしく接してくれるけど、そこを離れると人とうまく接触することができなくなる問題と少し似ています。
生産活動で「目の前ニンジン」問題に取り組む。
もはや消費活動においては、「目の前ニンジン」が用意されてしまいますから、「目の前ニンジン」のない活動を自前で用意しなければなりません。その一つには生産活動があります。日本初の「ヘボコン」がどんどん世界に広まっています。ロボットの素人がなんか作って見ようと志すも、大半は自分が思い描いているようなものからは遥かに「ヘボい」ものしかできません。そんなことはとてもよく知られていて、でもそれでいいからお互い戦おうというコンテストです。
つまり、ロボットを作ろうというような生産活動において、本来はその努力が気持ち良く報われることはなかなかありません。ヘボコンは、まさにそこにスポットを当て、それでもコンテストに出られるし、みんなにそのヘボさを楽しんでもらえるという、まさに生産活動における「目の前ニンジン」を作り出したイベントなのです。
そういう意味では生産活動においてもこれから、そういう「目の前ニンジン」化はどんどん進むのかもしれませんが、基本的に生産活動は手元でもくもくとやることですから、いつも誰かが「目の前ニンジン」を用意してくれるわけではありません。
生産活動に限らず、自分でなにか目標を設定し、それに向かっていくということは、同様に「目の前ニンジン」がかならずあるわけではありません。野球やってて毎日素振りすると取り組んでも、それがいつ報われるかは誰も保証してくれないし、自分で決められるわけではありません。
そういう報われないかもしれない努力をする力がこれからは必要ということでしょうか。
ならば自分で用意する
必ずしもそうとは限りません。ゲーミフィケーションの手法は与えられるだけのものでしょうか。そんな決まりはありません。自分でやってしまえばいいのです。中学の頃、写譜という宿題が出ることがありました。音楽の教科書の楽譜をノートに写すというものですが、面倒だと雑に描いていくと先生にネチネチ叱られます。それが非常に苦痛だったのですが、ある時一計を案じ、その宿題は自分の持っているカセットテープを端から順に聴いていくことにしたのです。当時多分100本から200本の間のカセットテープを持っていたと思うのですが、それだけあれば、中には長い間聴いてないものがたくさん出てきます。それを順番に聴くことにしたのです。懐かしいのがいっぱい出てきますし、中にはまた聴くようになるのも出てきます。とても楽しい時間になりましたから、写譜も丁寧にでき、先生に文句言われないようになりました。
その時の写譜がその後私の人生にどのように関わっているのかよくわかりませんが、だからといって別に恨んでもいません。そのときすでに「目の前のニンジン」化できて楽しかったから、もうそれで十分報われています。
そのときをきっかけに、私は「やりたくないことはしない」ようになりました。やりたくないことはやりたいことに変えたのです(いつからかやりたくないこともするようになっていますが)。
当時はゲーミフィケーションという言葉はありませんでしたが、まさに自前でゲーミフィケーションしていたのです。
よく、「努力している人は本人は努力していると思っていない」なんて話が出てきます。毎日ものすごい練習をこなしていて周りはすごいというのだけど、本人は別に?というわけです。そういう中には特にゲーミフィーションで楽しくしなくても、毎日ただ黙々と練習している人もいるでしょう。
ということで、「努力が報われるか」問題もだんだん整理できてきました。
・消費活動の中には教育も含め、「目の前ニンジン」がない活動は減ってきている。
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