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☗3
「なんかもう、誰ならあの人を倒せるんだって感じだったな」
「ま、紗津姫さんもこれで安心できるでしょ。少なくともあと一年は」
名人戦は第五局も伊達が勝利し、四勝一敗で防衛を果たした。ワンサイドゲームとは言えないまでも、持てる技術のすべてを跳ね返された豊田挑戦者。その心境は想像もできないほど苦く、痛々しいものだろう。
名人の勝ちっぷりを見て、将棋カフェ・タカトーでの解説を担当した山寺九段などは、引退する気なんて最初からこれっぽっちもないと断言していた。むしろ引退をほのめかすことで、将棋界に注目を集めさせるのが本来の目的だったのだと。
さすがにそれはないと思うのだが、希代の名人の実力を、まざまざと見せつけられた。来是としても、得るものが大きい番勝負だった。少しでもプロの技を吸収して、己の将棋道に邁進しなければならない。
「次は神薙先輩の番ですね! ぜひとも優勝してください」
山里の激励に、紗津姫は気安い返事はしない。謙虚な彼女が、そんな大それた約束をできるわけもなかった。
新進気鋭の女流棋士を対象にした新棋戦、正式名称は女子将棋フレッシュカップ。紗津姫の対局が、いよいよこの週末に行われる。予選と本選からなるが、他の予選はすでに済んでおり、残り一枠の本戦出場を懸けて戦うことになる。
気になる対局相手は、川口梨々女流初段。ネット中継の聞き手としての人気が高いが、その攻め将棋には男性プロからも定評がある。決して人気先行の棋士ではない。
「そうだ、当日に備えて練習したほうがいいんじゃないですか?」
「ですよね。俺たちを教えてる暇があったら、相手の研究とか」
一年生たちの発言に、来是、依恋、金子、そして紗津姫もほくそ笑んだ。去年のアマ女王防衛戦と、まるっきり同じ流れ。依恋が一方的にギスギスしたのも、今となってはいい思い出だった。
「そういうのはやらなくていいのよ。普段どおりにやっているほうが、紗津姫さんは元気が出るんだって」
「ええ、だから今日も楽しく部活をやりましょうね」
いつもの部活風景だった。来是も居飛車党と決めた男子たちに、棒銀を繰り返し仕込んでいく。
「ここでな、こうする手もあるんだよ!」
「え、銀がタダで取られるじゃないですか」
「しかしそうすると、こっちは飛車を成れるんだ。これでバランスが取れている!」
「おお、棒銀は奥深いっすね!」
紗津姫と依恋はふたりして、振り飛車党の女子に基本を教える。
「振り飛車は飛車交換に持ち込めれば、だいたい有利になれますね。それを積極的に狙っていきましょう」
「碧山先輩、中飛車っていうのを教えてください~」
「いいわよ。ガンガン攻めたい子には、これが合ってるわ」
奇襲好きの金子は、山里と横歩取りに明け暮れる。
「金子先輩、次は相横歩取りでどうでしょう?」
「ふふん、受けて立とうじゃないですか!」
気がつけば、もう六月になろうとしている。二ヶ月で部の方向性もあらかた固まってきた。好きな戦型の勉強、駒落ち指導対局、一年同士で実戦のローテーション。
将棋部はもう、このままで大丈夫。特別なことはしなくてもいい。
あとはいかに自分を磨くか。幸い、その算段もついている――。
部活が終わり皆が先に帰る中、来是は例によって紗津姫が鍵を閉めるまで待っていた。ゆっくり話し合う時間は、この時くらいしか確保できない。
話したいことはいくらでもあった。名人戦のこと、その他のタイトル戦のこと、アイドル活動のこと、後輩たちのこと、女子将棋フレッシュカップのこと、アマ女王防衛戦のこと。
将棋好きな女子高生は、全国にたくさんいる。しかし紗津姫ほど充実した将棋生活を送っている人は、きっといないだろう。
青春を謳歌する彼女の横顔は、日々美しくなるようで、来是の胸はいつも新鮮な喜びに満ちていた。
「来是くん、摩子ちゃんに指導してもらってるんですってね?」
「聞いたんですか。はい、ネット将棋で」
「来是くんを教える役目、取られちゃいましたね」
何とも愉快そうに笑っていた。親友が後輩のために――あるいは惚れている男子のために尽力してくれていることが嬉しいのだろうか。
「えっと、一回につき先輩の未公開写真一枚って契約で……勝手にすいません」
「ああ、それでですか。今日はずいぶん多く写真撮影しているなって思ってましたけど。いいですよ、有効活用してください」
先日の約束どおり、出水には紗津姫の秘蔵写真を送付した。ただし一枚だけ。たったそれだけとは思っていなかった出水は、ディスプレイから冷気が伝わるような怒りのメールを送ってきた。来是も全部渡すとは言っていなかったわけだが、無論そんな理屈では納得してもらえない。
そこで秘策を用意した。今後もネット将棋で指導をお願いし、自分が負けたらその都度新たな写真を送ると。すると彼女はあっさりと承諾した。ある意味、非常に扱いやすい人である。
「棒銀でしか来ないから、負ける気がしないって言ってましたよ」
「……まあ、全然勝ててないのはそのとおりなんですけど」
特に戦型の指定はしていないのだが、出水は先手でも後手でも、明らかに来是が棒銀を指すように誘導してくる。そうなれば選択肢はひとつ。待ち構えているとわかってはいても、それを噛み破らないことには上達はおぼつかない。棒銀の神髄は極められない。
「途中まで手応えはあるんです。……作戦は悪くないんですよ。勝負どころでまずい手を指しちまうだけで。一度もミスをしなきゃ出水さん相手にだって勝てるはずなんです。や、極論だってわかってます。確か大山名人でしたよね。将棋は相手のミスで勝つゲーム、みたいなこと言ったのは」
「ええ、その本質を見抜いていたから、あれほどの大名人になったんです」
「それでも俺は、急戦を、棒銀を指したいんです。間違っていない」
「……すごいですね、来是くんは」
「すごい、ですか?」
「同じ作戦で立て続けに負かされれば、やり方を変えてみようって思うのが普通です。でも来是くんはそうしない。失敗を全然恐れていない。自分の将棋を信じているんですね。……どうしましょう。ますます好きになっちゃうじゃないですか」
全身に甘い刺激が走る。
紗津姫は見たことがないほどに、積極的で、恋する少女の目をしていた。
「来是くん、私を追い越してください。私、あなたの気持ちに応えたいです」
さらなる追い打ちに、心臓が爆発しそうになる。
そうなりたい。そうなってみせる。その決意が決して揺らぐことはない。
なのに――ふと、もうひとりの少女のことが頭をよぎった。
依恋は今、どうしているだろう。中間テストあたりから、もう一緒に帰ることがなくなった。紗津姫とふたりきりで下校できて嬉しいはずなのに、何の心境の変化があったかと気になってしまう。
こんなにも紗津姫のことが好きなのに、依恋のことを忘れられない。あまりに愚かしい。だがこの気持ちはどうしようもなかった。