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俺の棒銀と女王の穴熊〈6〉 Vol.14
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俺の棒銀と女王の穴熊〈6〉 Vol.14

2016-04-08 21:00
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     帰宅後――その依恋が部屋で待っていたものだから来是は腰を抜かしそうになった。
    「ど、どうしたんだよ?」
    「渡したいものがあって」
     依恋は手の平サイズの小さな箱を差し出した。表面にわかりやすく椿油と書かれている。将棋駒の手入れの定番としてこういうものがあることは知っていたが、将棋部ではいつも乾拭きするだけだし、一度も使ったことはなかった。
    「わざわざ買ってくれたのか?」
    「ちょうどさっき届いてたの。これで年に一、二度はお手入れしてね。あんまりつけすぎちゃダメよ? 一滴だけで全部の駒を磨くには充分らしいわ」
    「そっか、サンキューな。てか、ずっと貸しといてくれるつもりなのか?」
    「うん、無期限で貸してあげる。もちろん利息はなし。こんな太っ腹な女、どこにもいないと思うわよ」
    「……そうだな。依恋はいい女だ」
     自然と口から出た言葉だった。彼女は得意そうに口端を曲げる。
    「自分に素直になってきたのね?」
    「俺はいいものはいいって言う男だぞ、昔から」
    「あら、そんなにあたしのこと、前から褒めてくれてたっけ?」
    「昔の依恋は、そんな褒めるような女の子じゃなかったぞ」
    「そうね。あたしもそう思うわ」
     依恋は変わった。過去の自分を率直に反省できるほどに。
     将棋を始めて、先輩と出会えて、俺は成長できた。来是には確固とした自覚がある。
     しかし依恋の成長は、自分の比ではない。心臓の高鳴りとともに、そう思い知らされる。
    「あたしね、本当に紗津姫さんには感謝してるのよ。将棋でもあるじゃない。ライバルのおかげで自分も伸びたって。それと同じ」
    「ああ……」
    「でもね、あたしはもっと、もーっと素敵な女の子になるわよ。紗津姫さんを越えるわ」
    「越えるって……先輩の何を越えるっていうんだ」
    「詳しくはまだヒ・ミ・ツ。でも、そのうちわかると思うから」
     軽やかな足取りで、依恋は部屋を出て行った。鼓動は依然として早まったまま、収まる気配がなかった。
     依恋の考えていることが、本当にわからなくなってきた。一生懸命に将棋を頑張る来是が好き――そう言ってくれた。言葉だけでなく、物質的な面でも応援してくれている。
     結果、紗津姫の棋力を超えてしまっては困るはずなのに。
     それとも、結局超えることは叶わないと確信しているのか。だとしたら、あの余裕と落ち着きぶりも頷ける……。
    「えい、しっかりしろ俺!」
     いつまでも心乱されているわけにはいかない。その夜、出水との指導対局の時間には平常心を取り戻した。しかし肝心なところで疑問手を指してしまい、劣勢から敗勢の坂を転げ落ちていくのは変わらなかった。
    「ここ、なんで今さら自陣に手を入れてるの。流れからいって攻めるところでしょうが。こうしてこうしてこうなってれば、本譜よりはまだマシだったわ」
    「な、なるほど」
    「それでも最後は私が勝っただろうけど。あんた、勢いがいいのは序盤だけね」
     ネット電話に繋ぎながら、ウェブ上の将棋対戦サイトで対局。ダラダラしないために一日一局だけ。感想戦もおよそ十分程度という取り決めだ。
     当初は適当に流す程度の指導しかしてもらえないかと思っていたが、蓋を開けてみれば最善手以外は許さんという容赦のない内容だった。写真の件もあるだろうが、手を抜かないことが紗津姫の信頼に応える道だと信じているのだろう。
     来是は厳しさよりも嬉しさを感じた。やはりプロによる教えは、何よりも糧になる。
    「ま、その調子で停滞してくれれば私もありがたいわ。あんたなんか、紗津姫ちゃんにはふさわしくないんだから」
    「……それってつまり、上手くいけば先輩を超える可能性があるって、思ってくれているんですか?」
     沈黙が挟まった。それをどう受け止めていいのか来是は迷ったが、何も言ってくれない以上、追及するのもためらわれた。
    「じゃあ、今日はこのへんで……ありがとうございました」
    「待った。あんたと同じ二年生の……名前なんだっけ、青山?」
    「碧山ですよ。……依恋がどうしたんです」
    「あの子のほうが、あんたにはお似合いだと思うわよ。いつもブログ見てるけど、最近ますます美少女になってるじゃない。紗津姫ちゃんと同じくらい」
    「……驚いた。先輩以外の女の子を褒めることもあるんですね」
    「いいものはいいって言うわよ。めったにないことだけどね。それに、絶対あの子のほうがあんたのこと好きじゃない」
     頭の奥で、針に貫かれるようなかすかな痛みが走った。
    「なんでそんなこと、出水さんが知ってるんです」
    「去年の合宿のときから知ってるし。十年来の幼馴染なんでしょ? まったく、紗津姫ちゃんも遠慮すればいいのに。……どうしてあんたなんかを好きになったのよ」
     恨み節を残して、出水はログアウトした。
     出水の心情は、何となくだが理解している。同性でありながら、紗津姫に友情以上の――決して報われない想いを抱いている彼女。春張来是が、チャンスのある男が、憎くてしょうがないのだ。
     依恋のほうが似合いなどと言ったのも、やり場のない感情の発露。
     紗津姫の何もかもを肯定する出水だが……唯一、恋だけは応援していない。
     出水までもが、結果的に依恋を後押しすることになっている? 来是の胸は再び渦を巻き始めた。
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