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時刻は五時を回っていた。対局が思ったよりも長引いたので、続けて第二局というわけにはいかないが、少しくらいなら雑談する時間はありそうだ。来是は前から気になっていることを聞いてみた。
「出場棋士の中で、一番注目している人って誰ですか?」
「そうですね……。あえて挙げるなら、財部瑠衣(たからべ・るい)さんでしょうか」
「LPSOの? なるほど、もしかしたら一番の強敵かも」
The Ladies Professional Shogi-players' Organization of Japan。略してLPSO、日本女子プロ将棋機構は将棋連盟から分離独立した、十数名の女流棋士による組織だ。その中でも期待されているのが財部瑠衣女流初段。次世代の女流棋士界を担う逸材として応援の声を送るファンは多い。またメディア受けするルックスで、今期からはNHK将棋講座の聞き手を任されている。
「確か男性の棋士を破ったこともありましたよね?」
「あの将棋はすごかったですね。角換わりで真っ向からぶつかって、最後は完璧に寄せきって。摩子ちゃんもあの人には注目しているみたいです」
「出水さんがライバル視するってのは、よほどのことですね。……でもこう言っちゃ悪いですけど、LPSOって財部さんひとりが孤軍奮闘しているって感じで、大丈夫かなあ」
「ええ……」
端正な顔を曇らせる紗津姫。……LPSOの設立には複雑な経緯がある。将棋を始める前の話なので、来是もネットで聞きかじった程度の知識しかないが、多くの将棋ファンを落胆させる話が散見される。紗津姫もあまり触れたくないのだろうと察した。
「ま、先輩だったら負けませんって! 誰が相手だろうと」
「はい、きっと期待に応えますね」
それからは明るい話題に徹した。ともすればマニアックになってしまう紗津姫の話だが、一生懸命に将棋を勉強したおかげで、だいたいの話題についていける。歴史に残る妙手、歴史に残る大頓死、その他心温まる棋士たちのエピソード。
この人と誰よりも楽しく将棋を語り合える男は――俺しかいない。うぬぼれではなく、心から確信できる。
あと少し、あと少しで届く。彼女の心を掴む、ただそれだけを目標に邁進してきた。決して夢ではなくなった。
とある棋士が言った。時には潔くあきらめることも大事だと。だけど、この恋は絶対にあきらめられない。彼女への思いを捨てられるわけがない。
なのにどうしてだろう。こんなときにまで、依恋の笑顔が脳裏に浮かんできてしまう――。
「そ、そろそろ暗くなったし、帰ります!」
薄霧を振り払うように立ち上がる。紗津姫も優雅な所作で腰を上げた。
「じゃあ、バス停まで送りしますね」
一階に降りると、料理をしていた紗津姫の母がわざわざ手を止めて、棚から何やら引っ張り出した。未開封のお菓子の袋だ。
「これ、よかったら持っていってください。妊娠すると甘いものが欲しくなるんだけど、ちょっと買いすぎちゃって」
「ありがとうございます。甘いものが欲しいって、赤ちゃんが欲しがってるってことですか?」
「そうみたいです。この前、食べ過ぎはダメってお医者さんから怒られちゃいました。紗津姫がその分食べてくれればいいんだけど、最近は控えるようになって。ほら、アイドルはお肌が大事でしょう?」
「お母さん、他にも持たせるものはない? せっかくだし」
「そうね、じゃあ一緒に見繕って」
お土産は手提げ袋いっぱいになって、来是の手の中に収まった。しばらくは間食に不自由することはなさそうだった。
紗津姫の母に丁重に別れを告げて、神薙家を辞する。薄暗いバス停までの道、紗津姫は来たとき以上に嬉しそうな顔をしていた。
楽しい時間を過ごせた。そう思ってくれている。できるなら、またお邪魔したい。しかしそう気軽に言える状況ではなさそうだ。
「先輩の家、これから忙しくなるんですね」
「まさかこの歳でお姉ちゃんになるなんて思いませんでした」
「先輩が赤ちゃんのお世話をすることも?」
「ありそうですね。ちょっと楽しみです」
小さな赤子を胸に抱き、母親のような優しさで子守歌を歌う彼女を想像した。それは美術の授業で見た聖母の絵画のように神秘的だった。
「よかったら、来是くんも抱っこしてみます? 生まれたての赤ちゃん」
「えっと……生まれた直後で、お邪魔じゃないですか?」
「大丈夫ですよ。母も来是くんを気に入ったみたいですし、きっと歓迎してくれます。それに……来是くんだっていつかお父さんになるんですから、今のうちに経験しておいて、損はないです」
「お、お父さんって、気が早すぎですって。あ、いや……何を言ってるんだか」
「私も、いつかはお母さんになります。そう遠くない未来が、いいです」
来是は火傷しそうなほど赤くなっている己を自覚した。お母さんになる。もちろんそれは、パートナーがいるということで。そう遠くない未来に……。
停留所に到着する。バスが来るまではあと数分。
まだ話したいことはあるはずなのに、上手く口から出てこない。先ほどの紗津姫の言葉が、来是の中で乱気流のごとく吹き荒れていた。
そして紗津姫は、さらなる追撃を仕掛けてくる。
「これで私も、依恋ちゃんに少し追いつけました」
「……どういう意味ですか?」
「依恋ちゃん、小さい頃から何度も来是くんを誘ってるんでしょう? やっと私も同じことができたなって」
「あいつと俺は……幼馴染ってだけで、それが自然だったんで……」
「すごいアドバンテージじゃないですか。十年以上も想われてるなんて。普通だったら、敵いっこないです」
「お、俺は!」
あなただけが好きなんだ。そう言えたら、どんなに楽だろう。
俺はもしかしたら……もしかしなくても、優柔不断のダメ男なのか?
「バス、来ましたね」
もう何も言うことができず、来是はバスが目の前に止まるのを待つだけだった。乗り込んでから、やっとのことで口にした。
「……明日、頑張ってください」
「絶対に勝ちます。明日も、その次も」
その次、に彼女らしからぬ強さが込められていた。