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俺の棒銀と女王の穴熊〈6〉 Vol.19
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俺の棒銀と女王の穴熊〈6〉 Vol.19

2016-05-16 21:00
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         ☆

     テレビカメラが入るらしいよ。プロデューサーである伊達名人からそう聞かされていたので、それが将棋会館の前で待ち構えているのを見ても、ごく自然にやり過ごすことができた。
     将棋アイドルとなってから、いろいろな経験をしてきた。カメラによく映るようになったのが、その最たるものだ。あとで映像を見ると、驚くほど綺麗に映っていて感激してしまう。同時に、人に見られるお仕事なんだという気持ちがいっそう強くなる。
     ただ今日のところは、無難に学校の制服を着用してきた。今後のために、もっと見栄えのするスーツを用意するのも手かと考えたが、やはり学生のうちは学生らしくするのが一番だ。それに昨夜、来是からこうも言われた。
    「先輩の制服姿は、もう今しか見られないんですから!」
     あの子が喜ぶなら、なおさらそうしようと思った。喜ぶ顔を見られないのは、少し残念だけれど。
     開始の三十分前、余裕を持って対局室のある四階へ向かう。関係者以外は立ち入り禁止のこの区域に足を踏み入れるのは、いつも緊張する。靴を脱いで、いよいよ対局室へ……。
    「おはよう、紗津姫ちゃん」
    「あ、摩子ちゃん?」
     盤の横のテーブルで、白のワイシャツ姿で正座しているのは、出水摩子女流3級だった。手元の記録用紙に対局者両名と、彼女の名前が記されている。
    「今日の記録係なの。間近で見たかったから、やらせてって自分から名乗り出たんだ」
    「そうだったんですか。無様な将棋は見せられないですね」
    「今まで無様な将棋を見せたことなんてないでしょ? 紗津姫ちゃん自身と同じように、いつだって華のある将棋だわ」
    「まあ、今日はプロに教えていただく立場ですから」
     下座に着席して、じっと待つ。ややあって、モバイル中継の担当記者が入ってきた。次いでカメラマン、ディレクターらしき人も。
    「神薙さん、今日はどうぞよろしく」
     名刺を渡される。普段の対局ではまずありえない光景だろう。さっそく記者がこの様子を書き留めていた。
    「こちらこそ、よろしくお願いします」
    「いやー、私は全然将棋わからないんですけどね! あなたのことを猛プッシュする部下がいて、通った企画なんですよ」
    「その人、大正解ね。紗津姫ちゃんが映った瞬間、きっと視聴率が倍増するわ」
    「さすがにそれは大げさですよ」
    「ううん、紗津姫ちゃんを見るためなら、たとえ有料放送でもお金を払うって人はいるはずだもの!」
    「なんでカメラ?」
     緩みそうになった場の空気を引き締めたのは、川口莉々女流初段の声だった。
    「川口先生、おはようございます」
    「……そっか、神薙さんの特集か」
     赤いハンドバッグを傍らに置いて、上座に座る。紗津姫と一度だけ視線を合わせたが、それっきり盤に目を落として動かなくなった。
    「あらま、こちらのお相手も、美人さんじゃないですかー。テレビ映えしそうだ」
     のんきなディレクターの言葉に、川口は眉ひとつ動かさない。
     怖い。率直にそう思った。
     昨年のクリスマスフェスタや春先の電将戦では、とても親しく話しかけてもらった。見る者を幸せにするような快活な表情は、さすが女流棋士の顔と呼ばれるものだった。
     それがどうだろう。戦意の光を宿す眼、あふれ出す力を押しとどめるように引き締められた唇。それでも全身から発散されるオーラ。
     まぎれもない、勝負師。ただ目の前の相手を倒すことだけを考えている、狩人の顔。
     私はこんな風には、とてもなれそうにない――やっぱり棋士を仕事にしないのは正解だったなと思った。
     振り駒が行われ、紗津姫が先手となった。
     もう誰もしゃべらない。カメラだけが回る中、張り詰めるような勝負の空気が醸成されていく。
     将棋は趣味だ。目の前の川口や傍らに座る出水のような、己の一生を賭けるほどの真剣さは持てない。
     それでもプロの現場でしか味わえないこの緊張感は、何度でも経験したい。こんなにも心躍ることはない。どんなにコンピューターが強くなっても、人間のプロと真剣勝負をすることこそ、アマチュアにとって最高の栄誉に違いないのだ。
    「お願いします」
     女子将棋フレッシュカップ予選最終局、その幕がいよいよ開いた。
     まだ作戦は決めていなかった。先手ならば主導権を握りやすい。それゆえ選択肢も幅広いが――紗津姫は深く考えることはしなかった。こういうときは、流れを大切にするのがいい。
     昨日のトレーニングでも指した、矢倉。こうすると、愛しの後輩がパワーを分け与えてくれるような気がした。彼はきっと今ごろ、小さなモバイル画面で見守ってくれているはずだ。
     川口もしばらくお付き合いしましょうとばかりに、同じく矢倉を目指した。しばらくは見慣れた定跡が続くだろう。
     すでにディレクターとカメラマンは退室して、対局室は本来の景色に戻っている。記者もいったん中座した。控え室で他の棋士のコメントを取りに行くのだろうか。
     そろそろエンジンをかけてくる頃だ――女流界きっての攻め将棋と言われる川口の猛攻に備え、紗津姫は予想される局面を脳裏に描き出していく。
    「カメラが入るとわかってれば、もうちょっといい服を着てくるんだったな」
     ……独り言と判断して、とりあえず反応はしないでおく。しかし川口は、はっきりと紗津姫の顔を見ていた。
    「神薙さん、何か反応してくださいよ~」
    「え? あの……」
    「学生はいいですよね。制服でアピールできて。やばいですよそれ、そのおっぱいブレザー!」
    「川口先生、お静かにしてください」
    「うわあ、記録係に怒られるなんて前代未聞!」
    「お静かにと言ってるんですけど? 公式戦で紗津姫ちゃんとおしゃべりしながら指すなんて……うらやましい……!」
     変なところで対抗心を燃やしている出水をよそに、川口は持論をまくしたてた。
    「昔は対局中のおしゃべり、よくあったそうじゃないですか。今それをしちゃいけないってことはないと思うんですよ。さっきはテレビカメラあったから真剣な顔をしてましたけど、ネット中継なら観る将向けに親しみやすさをアピールするっての、ありじゃないです? 伊達名人なら、きっとありだって言うかと!」
    「ど、どうでしょうか。今度聞いてみますね」
     もしかして、気を緩ませようとする盤外戦術なのかしら。チラッと浮かんだ可能性をすぐに否定して、紗津姫はあらためて意識を盤に集中させた。
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