【本格将棋ラノベ】俺の棒銀と女王の穴熊
「ん……すみません、ちょっと出てきます」
紗津姫が携帯を持って部室の外へ出た。
彼女をマネジメントする会社、もしくは伊達清司郎プロデューサーから連絡が入って中座するのは、もはや日常茶飯事である。学校にいる間は遠慮すればいいのにと思うが、社会人の彼らにもいろいろ時間の都合があるのだろう。
「あの人、学園クイーンなんですよね? 私、学園祭で見てました。高校のミスコンなんて、そんなたいしたものじゃないって思ってたら、ものすごく盛り上がっててビックリしましたよ」
新入部員のひとりが言うと、依恋が苦笑いのような顔を見せる。彼女にとっては、紗津姫に惜敗した悔しい思い出だ。しかし今年こそはと、去年以上の情熱を燃やしてもいるはずである。
「紗津姫さんはダブルでクイーンよ。アマ女王っていうタイトルも持っててね。控えめに言っても、日本で一番将棋が強い女子高生ってところ。そのアマ女王の防衛戦は……えーと、二週間後だったっけ?」
「ああ、相手は城崎未来ちゃんだな」
「だったら、負けることはないですよね! 去年の女流アマ名人戦でも完封してましたし」
金子の言葉に来是も同意する。未来とは今も千駄ヶ谷でちょくちょく対局するが、当初大きく開いていた実力差はもうなくなっていた。平手で戦っても、いい勝負ができる。つまり彼女の現在の棋力は、来是とほぼ互角だ。
冷静に考えれば、まだ小学生でアマ三、四段というのはかなりの才能である。聞いたところでは彼女も女流プロ志望だそうだ。このまま努力を続ければ、小学生のうちになることも可能かもしれない。
だが今は、まだ紗津姫には及ばない。少なくとも出水を挑戦者に迎えた去年よりは、安心できそうだった。
「じゃあ防衛できたら、みんなでお祝いでもしませんか? こう、お菓子とかジュースとか持ち込んで、パーッと」
山里が嬉しそうに提案すると、他の一年生たちも賛成と口々に言う。
お祝い。去年のことを思い出して、来是は少し胸が熱くなった。
「奈々、それってあんたがパーティーやりたいだけじゃないの?」
「あはは、それもあります。去年はやらなかったんですか?」
「ああ……うん、ちょっとしたことはやったわ。ね、来是」
まさか自分が紗津姫の荷物持ち……という名の一日デートをしたとは言えない。来是は曖昧に頷くほかなかった。
やがて紗津姫が戻ってきた。
「今度は何を依頼されたんですか?」
「初心者向け将棋大会のゲスト出演を頼まれまして。……LPSOから」
「え、LPSO?」
「ははあ、紗津姫さんの人気にあやかりたいってわけね」
先日、紗津姫の家に行ったときにも少し話題に出たLPSO。将棋連盟から独立したものの、組織としての力はとうてい及ばず、所属する女流棋士たちも盛りを過ぎた人が大多数で、タイトル戦にはまるで縁がない。
一将棋ファンとしては少し、いやかなり心配になってしまうのだが、なるほど依恋の指摘どおり、将棋アイドルの人気に頼りたいと考えたのかもしれない。それだけでどうなるものでもないとは思うが……。
「引き受けたんですか?」
「もちろんです。少しでも初心者の方たちの力になりたいですから」
「ふうん。ま、そうやって今のうちにコツコツ実績作っていけばいいじゃない。紗津姫さん、大学には行かないんでしょ?」
「そのつもりです。将棋の普及活動に全力を注ぎたいですから」
おおー、と下級生たちから感嘆の声が上がった。卒業したらすぐに働く。社会人になる。まだ高校生になりたてホヤホヤの目には、ずいぶんカッコよく、輝いて見えるのかもしれない。
ふと、自分はどうなるのだろうと思った。
他の大多数と同じく、漠然とどこかの大学に進学してどこかの企業に就職して……と考えていた。もちろん将棋も続ける。いつかはアマのビッグタイトルを狙いたい。それで何も問題はないはずだ。
しかしどこかで、これしか道はないという具体的な想像もしていた。
将棋アイドルとして活躍する紗津姫を支える。彼女の周りにはこれからも、将棋に興味を抱いた初心者たちが集まるだろう。彼女は自らの手で教室やサロンをやっていきたいと考えるだろう。だから自分は裏方になるのだ。彼女が何も気にせず仕事に取り組めるように、経営面でサポートを。
いやそうだとしたら、やっぱり大学には行ったほうがいいのだろうか。経営学を学べるようなところに行って、みっちり基礎を習得して。将棋教室やサロンはどこも経営難と聞く。よほどの腕とセンスがなければ、健全な経営は難しいはず……。
「先輩、どうかしたんすか? ボーッとして」
指導中の後輩男子から声をかけられ、慌てて我に返る。盤面のことを考えているのではない、そう思われるほど集中力のない顔をしていたようだった。
「あ、ああ、悪い。えーと」
持ち駒の歩をつまみ、敵陣に打ち下ろした。
「こうやってな、相手の金銀の連結を崩すんだ。この手筋はぜひ覚えてくれ」
しかし後輩はキョトンとして、打ったマスと同じ筋の、別のマスを指さした。
「二歩っすよ?」
「げ? なんてこった」
「どーせ変なこと考えてたんでしょ。あんたの悪い癖ねー」
依恋の容赦ないツッコミに、部室は笑いに包まれた。
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