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来是は開店に向けて準備を整えながら、着席して出番を待つ財部を横目に見る。高遠から提供された紅茶を飲む姿が、とても楽しそうだ。あんな一面があるだなんて、絶対に誰も知らなかっただろう。
一方の依恋も、思わぬ歓待を受けたかのようにまだ頬を紅潮させている。同世代の女子からチヤホヤされるのは慣れっこだが、年上の女性からあのように接されたことはあまりないはずだ。紗津姫と比べて「たいしたことない」みたいなことを言っていたが、そんな失礼な考えはとうに消え去っているに違いなかった。
やがて開店時刻を迎え、馴染みの面々がやってきた。
「おお、春張くん、エプロン姿似合いますねえ!」
「依恋せんぱーい! きゃ、超可愛い服!」
金子と山里がまっさきに依恋と同じ席に座る。依恋と比べたら、あまりに普通の装いだと思った。依恋もそう思ったらしく、すかさずダメ出ししている。
「ふたりとも、もうちょっとオシャレしてきなさいよ」
「いいんですよ、私たちは碧山さんの引き立て役で。ねえ山里さん」
「そうそう。路傍の石でいいんです」
他のお客も続々と入ってきた。高遠が望んでいたような、恋をしたい年頃の女性の割合が多い。おじさんばかりと思われて、何かと女性にとっては敷居の高い将棋のイベントだが、このカフェはそれを完全に克服しているとあらためて感じる。天気が悪くても足を運んでくれた彼女たちは、将棋界の宝だと言っても差し支えあるまい。
しかしその中に、明らかに恋愛より仕事という風情の、バリバリのプロがひとり交じっていた。
「御堂さん、またここで勉強ってわけですか」
「ああ、例によって解説役の人が誰かも気になってたし」
御堂涼の視線が、財部へと向けられた。
「LPSOからお出ましとは、ちょっと予想できんかったわー」
「御堂涼さん、ですよね? はじめまして」
「よろしゅう。フレッシュカップの予選は完勝やったね。見事な振り飛車破りで」
「いえ、一度詰みを逃してしまいましたし……」
「一度逃しても勝てるくらい、形勢に差が付いてたってことやろ。うちもあんたに早く追いつけるよう、頑張らないとな」
「財部さん、そろそろお願いできる?」
「はい!」
暖かい拍手が鳴り響く中、財部は大盤の前に立った。
「みなさんはじめまして。財部瑠衣です。本日は精いっぱい、務めさせていただきますので、よろしくお願いいたします。いつもは聞き手なのですが、高遠先生には解説という大役を任せていただき、本当にありがとうございます」
NHK将棋講座そのままの丁寧な語り口に、客たちは皆ほっこりしているようだった。来是は相次ぐオーダーをきびきびと処理しながら、彼女の解説が成功するようにと願った。
伊達棋聖の先手ではじまった棋聖戦第一局は、横歩取りとなっていた。財部は逐一スマホの中継画面を見ることはせず、常に客と盤面に向き合っている。現時点までの局面を、当然のように覚えているのだ。
「3三角戦法ばかりじゃなくて、超急戦もやってくれたら面白いんですけどねえ」
「横歩取り好きですけど、高度すぎて逆に参考にしづらいです。あはは」
のんびりと言う金子と山里。このふたり、何だかいいコンビである。
「そうですね。どの戦型もそうですけれど、プロの横歩取りは特に高度で……だから女流の人たちはあまりやらないのかもしれませんね。私も実戦では、ほとんどやった記憶がありません」
と言いつつも、財部は横歩取りの基本戦術や手筋を詳しく、それでいて初心者にもわかりやすいよう噛み砕いて説明していく。
そういえば財部も居飛車党のはずだ。女流同士の対局でほとんど現れなくても、横歩取りの勉強は絶えずしているのだろう。以前に男性棋士との対局で金星を挙げることができたのも、そうした報われるかどうかもわからない努力が下地にあったからだ。それができる人が、プロなのだ。
【図は△5五角打まで】
「これは今もっとも研究されている形のひとつですね。後手有望と見られている形なのですが、あえて伊達棋聖は飛び込みました。ここからはもう、どちらの事前研究が優っているかという勝負になります」
「横歩取りって、まるで間違い探しゲームやね。一手しくじったら、もう取り返しがつかん」
御堂がコーヒーをすすりながら言う。来是もそうだなと思った。もちろんそのスリルこそが魅力なのだろう。自分の愛用する棒銀戦法も似たようなものだ。一手間違えれば、せっかく出ていった銀が役目を果たせないまま敗北を喫する。
常に最善を目指す――将棋はその姿勢を養うことができる。
「ねえ、ケーキでもおごってあげようか」
「へ? どうしたんです碧山さん」
「今日はちょっと気分いいからさ」
「依恋先輩~! もう一生付いていきます!」
彩文の三人組は、触れれば切れるような極限の勝負に、そこまで関心はない。マイペースで女子会を満喫していた。売上に貢献してくれるなら何でもかまわない。来是は淡々と注文を取っていく。
現局面まで駒を並べたところで、財部は休憩に入った。ゆっくりと何か飲むのかと思っていたら、各テーブルを回っていく。
「今日はお越しいただき、ありがとうございます」
「財部さん、応援してるよ。LPSOの星だからね」
「あの、よかったらサインいいですか?」
「ええ、私なんかのサインでよければ」
暇さえあれば、将棋ファンとの交流。その姿勢が自然に身に付いている。
プロだから当たり前と言われるかもしれない。しかしその当たり前を、アマチュアは尊敬せずにいられない。
「財部さんって、すごくいい人じゃない。あたし気に入ったわ」
依恋が見守るような顔で財部に視線を向けていた。
「ファンって言ってくれたからか?」
「それもあるけど、何かひたむきな感じがしてさ。好感持てるのよ」
うんうんと金子&山里も首肯する。
さっき誰かが言ったが、LPSOの星という境遇がそうさせているのだろうか。無論、プロ棋士であれば誰もが一生懸命だ。しかし財部ほど周囲から――それも同業者の――期待を背負っている人はいないかもしれない。
将棋連盟から独立したLPSO。その存在が、来是は急に気になりはじめた。