閉じる
閉じる
×
☆
交流戦前、最後の部活。
来是は高鳴りまくる心臓の音を聞きながら、相手玉の頭に金を打ち付けた。
「負けました」
「ありがとうございました……。や、やった!」
来是はたまらずガッツポーズした。
四枚落ちとはいえ、本気の紗津姫に勝ったのだ。
これまでは常に指導対局だったので、手を緩めて勝たせてもらえたことが何度かあった。しかし今回は、本気で勝ちに行くと宣言された上で――その猛攻を凌ぎ、巧みな防御を攻め崩した。
「たかが一回勝っただけでしょ。来是だって危なかったし」
「わかってるって。でも嬉しい!」
「これなら二枚落ちになる日も近いですね。春張くんは本当に上達が早いです」
「先輩の指導が上手いからですよ。マジ感謝です。明日に向けて弾みがつきました」
「そうよ。あたしに勝ったからには、無様な将棋は許さないんだからね」
明日が初めての対外試合。今まで勉強したことをすべてぶつけていい将棋をする。それが紗津姫への恩返しにもなるだろう。
「俺の栄えあるデビュー戦だ。何としても勝ちたい……と言いたいところだけど」
「だけど、何よ」
「たぶん、勝てないんじゃないか?」
来是はあっけらかんと笑った。
「ちょっと、戦う前から諦めているの?」
「あっちだって、ナンバー3を出してくるわけだろ。どれくらい強いのか知らないけど、少なくとも初段以上とかだったら、俺の勝てる相手じゃないぞ」
「だろうなあ」
関根も間髪入れず同意した。
明確な実力差がある場合、将棋というゲームは波乱が起こりにくい。人間のすることだから、必ずミスはある。それでも下手の、技術の劣る者が勝つのは難しい。
交流戦メンバーに決まってから、来是はふたりの先輩と何度か平手対局を行った。
結果は全敗。紗津姫にはまるで歯が立たず、関根には優勢になれそうな局面もあったが、そこから勝ちきることができなかった。
現在3級の関根に対してこうなのだから、もしそれ以上の段位者が相手なら、勝率は限りなく低いと言わざるを得ない。
「だったらハンデをつけてもらえばいいじゃない。できないの?」
「できないんですね」
紗津姫が首を横に振る。
「公式の団体戦と同じようにやるというルールですので。それに現時点での棋力を客観的に示すのも難しいです。春張くんはこの前、10級と認定されましたよね。今は猛勉強の成果でそこそこ上がっているはずですが、正確なところはわかりません」
「そっか。それじゃあ正しい手合割で対局できないですよね」
まだ将棋を始めて間もないから、特別に駒落ちでやらせてくれる……そんな展開も期待しなかったわけではないが、やはり叶わないようだ。
「わざわざ負けに行くようなものじゃない。なんか空しいわ」
「んなこたーない」
来是は明るく否定する。
「先輩も前に言ったろ。今は勝ちにこだわるより、将棋の勝負とはどういうものかを、たくさん体で覚えることだって。もちろんやるからには全力で勝ちを目指す。相手のミスにだって期待したい。でもそれより、俺は楽しんで指したい」
「負ける可能性が濃厚だってのに、楽しめるの?」
「相手が誠意を持って向かってくれるなら、な」
「くう、わずかの間に成長したねえ。熱心な後輩を持って俺は幸せだ」
来是は張り切って練習を続けたかったが、明日に備えるということで、部活は早めに切り上げられた。
気分が高揚すると、夕焼けもいつもより輝いて見える。来是の足取りは鳥のように軽く、心は朝露のように澄み切っていた。
一念発起して将棋という未知の世界で高校デビューした。自分は変われたという自覚もある。
明日の交流戦は、現時点での集大成だ。勝ち負けは問題ではない。どれほど立派な対局姿を見せられるかだ。
「あ、あのさ」
依恋は来是と顔を合わせないで、つぶやくように言う。
「うん?」
「あんたは勝てるとは思ってないみたいだけどさ。もし勝てたら……」
「勝てたら?」
「キスとかしてあげてもいいよ?」
「へ?」
「次期クイーンのあたしのキスよ。こ、光栄でしょ」
依恋は数え切れないほど自分をからかってきたが、これはまたずいぶんな変化球だ。とりあえずまともに返事をしたら負けに違いない。来是はそう思った。
「それなら現クイーンの先輩のキスのほうがいいなあ。なんちゃって」
「……」
「いや、大事な対局の前に雑念が入り込まないようにしないと! 心頭滅却、明鏡止水だ」
「はあ……どうしたもんかなあこれ」
「何がだ?」
「こっちの話! じゃあね」
もう碧山家の前だった。依恋は駆け足で門扉をくぐっていく。また明日な、と言う暇もなかった。
「さて、詰将棋でもやるか」
明日に響かないようにという紗津姫の配慮はありがたかったが、この興奮を静めるには将棋と向かい合っているのが一番よさそうだった。
公式戦でも何でもない、ただの交流試合。それでも自分の大事なデビュー戦。悔いを残さないために、自分なりに全力を尽くす。