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俺の棒銀と女王の穴熊【2】 Vol.1
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俺の棒銀と女王の穴熊【2】 Vol.1

2013-06-26 18:00
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    ■1

    「金玉……」
     聞き間違いに決まっている。どう考えてもあり得ない。
     そう思いたかったが、今この瞬間は当たり前のように、確かな現実だった。
     春張来是は今、ひとりの女生徒に釘付けになっている。
     休み時間、たまたま職員室前の廊下を歩いていると、彼女がその言葉をつぶやいたのが耳に入り、思わずその場に立ち止まってしまった。ふたりは時間が止まったように硬直していた。
     ……彼女は驚愕の視線で見つめる来是には気づかず、半ば呆然とした顔で、それを眺めていた。
     目の前にあるのは、何の変哲もない緑色の掲示板だ。学校からのお知らせプリントなどが画鋲で貼られている。
     いったい何を見て、彼女はあんな言葉を口にしたというのか?
    「あっ……」
     ようやく女生徒が、来是に注視されていることに気がついた。
     ネクタイの色は自分と同じ一年生を示す赤だ。丸い銀縁眼鏡と丁寧に編み込まれた三つ編みが、いかにもおとなしそうな印象を与えた。窓際で小説など読んでいそうなタイプだと思った。
     そんな彼女の顔が、たちまち紅潮していった。両目がいけないことをしているのを咎められたように見開かれている。
     聞かれてしまった、と思ったのだろう。こともあろうに――「金玉」などとつぶやいてしまったことを。
     人間は予想外の事態に陥ると、まったくもってどうしたらいいかわからなくなる。来是は硬直したまま、奇妙な女生徒をじっと見つめ返していた。
    「さ、さよなら!」
     先に動いたのは彼女のほうだった。脱兎のごとくという形容がぴったり、慌てふためきながら小走りで向こう側へと去っていった。
     ――なんだったんだ。
     来是はあらためて掲示板に目を向けた。
     この掲示板は基本的に教職員が生徒への告知に使用する。したがって許可を得ていない生徒が勝手に使うことはできず、ふざけたものは貼られていないはず――。
    「あ」
     なるほど、と来是は納得した。
     あまり目立たないが、まごうことなき「金玉」がそれに印刷されていたのだ。

         ☆

    「やっぱ納得いかない。紗津姫さんの写真だけやたら大きくてさ」
     部活の休憩中、碧山依恋はこの前発行されたばかりの新聞――私立大蘭高校との新年度交流戦を制した記事が載った、新聞部の最新号を手にして文句を漏らした。
     確かに依恋の言うとおり、一番にピックアップされているのは将棋部が、いや我が校が誇るアマ女王の神薙紗津姫。惚れ惚れせずにはいられないほど、凜として美しい対局姿の写真がドンと掲載されている。
    「新聞部としては、神薙先輩を前面に押し出したかったんだろ。華があるし」
    「でも、来是だって勝ったのに」
     部長の関根三吉と、三将として辛くも勝利をあげた来是も、小さな写真で紹介されている。扱いの差が歴然であることは誰が見ても明らかだった。
     もともと新聞部は、昨年度の学園祭クイーンである紗津姫をどうにかして大々的に取り上げたかった。将棋部の取材という名目ではあるものの、言ってみれば来是も関根も、おまけにすぎないのだ。記事を担当した浦辺も、先輩たちの意向でこうなったと苦笑いしていた。
    「別にいいよ。こうして取り上げてもらっただけでも満足だ」
    「そうだな。これで将棋に興味を持ってくれる人が増えてくれればいいんだが」
     関根の視線は、新聞の隅っこに向けられている。
     そこに「将棋部員随時募集中!」とある。紗津姫が浦辺に頼んで、特別に宣伝スペースを設けてもらったのだ。
     そこだけ将棋の駒をちりばめた、ちょっとポップな感じのデザインレイアウトになっている。金将と玉将が隣り合っている。
    「小学生じゃあるまいしなあ」
    「何か言いましたか? 春張くん」
     紗津姫の柔らかい声に、来是は慌てて首を振った。
    「いえ別に! なんでもないです!」
     ……つまりあの女生徒は「金」と「玉」を繋げて読んでしまったのだ。
     今まで気づきもしなかったが、確かに金玉である。まるで小学生並みの連想だ。もちろん憧れの紗津姫の目の前で、そんな下品な単語を口に出すわけにはいかない。
     男子ならともかく女子の口から出た言葉だけに、強烈な印象が残ってしまっているが……いつまでもこんなことを考えているのは馬鹿らしいと思った。
    「さて、そろそろ休憩を終わりにしますか。依恋ちゃん、ここらで新しい戦法を覚えてみませんか? ダイレクト向かい飛車というやつです」
    「響きからしてすごそうね。ぜひ教えて」
     このふたりの親密度が、かなり上がっている様子なのが来是は気になっていた。紗津姫はいつの間にか依恋を名前で呼ぶようになっており、依恋も相変わらずライバル心を漂わせているものの、尊敬すべき部分は尊敬しているという印象だ。
     女子同士、いろいろと通じるものがあるのだろう。もしかしたら依恋を通じて先輩の秘密の話を聞き出せるかもしれない、などと来是はほくそ笑んだ。
     そのとき、扉がノックされた。コンコン、と遠慮がちな音。
    「ん? も、もしや!」
     ガバッと椅子から立ち上がり、関根が扉に近づく。彼が何を期待しているのかは明らかだった。
     だが、もうほとんどの新入生が部活を決めて活動しているはずだ。紗津姫の「将棋をもっと大勢に広めたい」という願いは理解しているし応援もしているが、今さら新しい部員なんて来るのだろうかという冷静な分析もしてしまう……。
     関根の手によって、勢いよく扉が開かれた。
     次の瞬間、来是は転げ落ちそうなほど仰天した。
    「こ、こんにちはっ」
     丸い銀縁眼鏡と丁寧な三つ編み。地味だけどよく見れば整った顔立ちをしている。その表情はなんだかやけに真剣そうに見えた。
     ――あの金玉の子だ。
     なんで? 来是はまたしても固まってしまった。
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