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■2
女性限定のアマチュア棋戦はいくつかあるが、中でも将棋連盟が主催する女流アマ名人戦は、歴代優勝者の中から数々のプロを輩出していることで知られている。
週明けの部活で、紗津姫は昨年秋に行われた女流アマ名人戦の決勝戦の棋譜を並べてみせた。驚くべきことに、出水の相手は紗津姫だった。
だが、女流アマ名人の座に輝いたのが出水ということは――。
「ここで私が投了しました。こちらにもチャンスはあったのですが、上手く生かし切れませんでしたね」
「先輩が……負けたんですか」
「もちろん私だって当たり前のように負けますよ」
「へえ、なんか安心しちゃうわね」
依恋は軽く笑うが、来是にとって紗津姫は絶対の女王だった。将棋というゲームに、いや世の中に絶対などないことは当然理解しているが、彼女がかつて敗北したことがあるという事実は、あまり認めたくなかった。
「どう思いました? この棋譜を見て」
「どっちもすごいです。俺とは全然比べものにならない」
「……まあ、それはあたしも認めるけど」
「それがわかってきたなら、君らも上達しているってことだ」
関根部長は後輩の成長ぶりが嬉しいようだった。
彼の言うとおり、紗津姫の、出水の指し手の意味が、詳しい解説がなくともだいたいわかるようになっていた。
これが、本当に上手い人の将棋なのだ――。
「私はさっぱりわかりませんけど、なんとなく駒の動きが、そう、攻めと受けのせめぎ合いが美しいと思いました!」
「金子さん、いちいちBLに結びつけないでよ! ……それよりあいつ、この将棋部をごっこ遊びとかぬかしていたわね。ひとりで練習しているってことかしら」
「そうみたいです。……あの人とは以前からいろんな大会で顔を合わせているんですが、最初はもうちょっと柔らかい態度だったと思うんですよね。いつの間にか、勝負にのみ徹するようになった感じで」
出水摩子という少女の人となりは、所詮赤の他人の自分にわかるわけもない。いかなる心境の変化があってそういったスタンスとなったのかも興味がないことだ。
大事なのは……彼女が紗津姫を負かすほどの、女性としてはトップクラスの指し手だということ。
「先輩がアマ女王を防衛できない可能性も、あるってことですか」
「大蘭高校の城崎さんと同じくらいの強敵です。難しい戦いになるでしょうね」
勝てる自信があるとも、負けたくないとも言わない。
紗津姫は勝敗を超えたその先に将棋の神髄を見ている。無論、盤の前に座ったなら全力を尽くすが、いい意味で勝ちにも負けにもこだわってはいないのだ……。
「まあ、私のことよりも自分のことですよ。春張くんと依恋ちゃんは、次は初段という目標ができたんですから、それに向かって邁進しないと」
「……そうですね。なるべく早くなりたいです」
「あたしのほうが先に昇段するわ。競争よ」
「おう、負けないぞ」
「その意気その意気。金子さんはまず10級が目標だな」
「はいです。私はのーんびりとやりますよ」
普段どおりに、部活の時間は流れていく。
来是も依恋も、紗津姫との指導対局は二枚落ちに昇格していた。先日は城崎未来相手に勝ちを収めたが、この女王相手に奇跡は起こらない。どう攻めようとしても完璧に受けられてしまう。
「んぐぐ……! あとちょっとだったのに」
「依恋ちゃんは攻め将棋なのはいいですが、簡単な即詰みを見逃してはいけませんよ。落ち着いて盤面を見る癖をつけてください」
「これが銀冠っていう囲いだ。見てみ?」
「お、おおお! 金と玉が並んでいます!」
関根は付きっきりで金子を教えている。なんとなく副部長の影に隠れがちだが、彼も後輩の指導はなかなか上手かった。彼女に合わせていちいちBLを絡めるのはどうかと思うが。
【銀冠】
そのあとは詰将棋早解き勝負をしたり、先日依恋が購入した天野宗歩の本を読めもしないのにパラパラと見たり。
来是は何度も紗津姫を観察する。
彼女は自分を磨くための練習を何もしていない。おそらく家ではプロの棋譜並べをしたり詰将棋を解いたりしているのだろうが……自分たちが紗津姫の練習時間を削ってしまっていることは確かだ。
この将棋部の時間が、何より大切だと考えてくれている。とてもありがたいし、自分自身、彼女と触れ合う時間を多く持ちたい。
その一方で……なんとしてもアマ女王の座を防衛してもらいたいと強く思う。そのためなら後輩を教える時間なんて、いくらでも削ってくれていい。
しかし、紗津姫は決してそのような提案には応じないであろうということもわかっている……。
「今日はここまでですね。お疲れ様でした」
「……お疲れ様でした」
紗津姫は来是の気持ちに気づく素振りもなく、終始ご機嫌な笑顔だった。
まだまだ明るい夕方の空の下、部員一同は並んでグラウンドを横断する。オレンジ色の光に照らされる紗津姫の横顔は、かけがえがないほど美しい。
私のことよりも自分のこと……そう言ってくれたが、来是の生活はこの女王を中心に回っている。片時も気にかけずにはいられない。
「ところでそろそろ中間テストです。テストの一週間前から部活はお休みになりますので」
「えええ? そんな」
「そんなってあんた、当たり前でしょうが」
「ちなみに赤点をひとつでも取ると、さらに一週間は部活が禁止になるぞ。やっかいな規則だけど、まあ大丈夫だろ?」
関根の言葉がちくりと胸に突き刺さる。
頭の悪い男など、きっと紗津姫は嫌いだろう。そう考えている来是は、将棋ばかりに夢中になって予習復習をおろそかにするということはしていない。だからさすがに赤点を取るほどひどくはならないと思う。
「逆に、成績優秀者が出た部は人数に応じて臨時の部費が支給されるんです」
「へー、面白いですねえ。どのくらいの成績を取ればいいんです?」
「学年の上位十名です」
金子の問いに、紗津姫はあっさりと答えた。すると依恋がニヤニヤと唇を曲げる。
「あたしは中学時代、いつもトップ5には入っていたわよ。いい女は頭もよくなくっちゃね」
「そりゃすごいな。神薙もいつも学年トップだし、かなり期待できるな」
「……トップ? 一番ってこと?」
「そう、神薙は勉強のほうも女王なんだ」
その言葉を聞いて、依恋の瞳にメラメラと炎が灯っていた。