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☆
「先輩ってやっぱり暗記は得意ですか? 一局の駒の動きを覚えちゃうくらいだから」
「そうですね、一度覚えたらあまり忘れないです」
「将棋は記憶力を鍛えるのにもいいってことね」
「うちのおじいちゃんも、ボケ防止にいいって言ってますよ」
朝は国語、漢字の読み書きから始まった。朝だからあまりペースを上げずに、のんびり雑談をしながら。座る位置は昨日と同じで、依恋が来是の隣でちょくちょくヒントを出している。
「しかし漢字ってのは、ある意味で損ですよね。一部のアジアでしか通用しないもんだから、将棋だって海外には普及していないんでしょう?」
「そうですね。チェスは立体の駒ですし、囲碁なんて白と黒の石だけでいいですから。わかりやすさという点では、将棋がやや不利なことは否めません」
チェスも囲碁も、そのとっかかりやすさゆえに世界的にプレイヤーが多い。それに比べれば将棋は、小さな島国のマイナーな競技にすぎないのだ……。
「だけど将棋に興味を持つ外国人も、徐々にですが増えていますよ。ネットで世界中の人と対局できますし。つい最近ですけど、海外に強い女の子がいることを聞いた連盟がその子を女流棋戦に招待したところ、なんとプロ相手に一勝を挙げたんです」
「へえ! そんな人がいるんですか」
「一度、お手合わせしたいものですね。将棋で始まる文化交流、素敵です」
二時間みっちり勉強して、休憩時間に入った。
日曜日の朝は、忘れてはならないNHKの将棋番組。来是はさっさと勉強道具をしまい、わくわくしながらテレビ画面に見入った。
今日の将棋フォーマルは伝説の一手特集。プロの素晴らしい手を徹底紹介するということで、先週から楽しみにしていたのだ。
映し出されたのは、昭和五四年の名人戦、中原誠と米長邦雄の一局。もう三十年以上も前に、いかなる驚愕の手があったというのだろう? そう思っていると紗津姫が言った。
「ああ、これですか」
「知ってるんですか?」
「それはもう有名ですから」
【図は△3三桂まで】
手番は先手。いかにも難解な終盤戦という感じで、次にどう指したらいいのか見当もつかない。
「依恋、わかるか?」
「わかんないけど……先手がやばいんじゃないの?」
「そう、ここで受けの絶妙手があったんですよ」
「絶妙な受けですか! いい響きですねえ」
「金子さん、ちょっと黙ってよ」
ともかく、先手の中原名人が勝ったということだ。来是には▲6七金と馬を取るくらいしか思いつかないが……。
そして講師のプロ棋士が示したのは、▲5七銀。
「な、なんで? 馬で取られちゃうじゃない」
依恋の疑問はごく当然のものだった。しかもその馬は、来是が考えたとおり金で取れたはずのものだ。みすみす逃がしたばかりか、タダで銀を取らせるような手が、どうして絶妙手なのか。
ところがプロ棋士は解説を続ける。後手の米長挑戦者は、ここで負けを確信したと。
実戦でもここで△同馬とされたが、実は馬の位置を遠ざけたことで、自玉が安全になったのだ。あとは攻め合いをして、中原名人の勝利となった。
「うわあ……こんなの思いつくわけないですって」
「これがプロなんですよ。ぞくぞくしちゃいます」
恍惚とした眼差しを画面に向ける紗津姫。
自分にもこれほどの眼差しを向けてくれる日が、いつか来るのだろうか。この女王を心から震わせるような人間になれるのだろうか。
道のりの険しさを思うと溜息が出るが、だからといって諦めてはいけない。棒銀のように一直線に突き進むのみだ。
やがて番組が終わる。休憩時間はそろそろ終わりにして、次の将棋トーナメントを流したまま勉強を再開することになった。
「そういえばお伝えしなければならないことがあるんですが」
「なんですか?」
「近々、将棋フォーラムの取材を受けることになりまして」
「……え、ええええええええええ?」
誰よりも早く反応したのは依恋だった。対して来是は声も上げず、ほとんど呆然としていた。
天下のNHKから取材? 先輩の姿が、全国に流れる?
「すっごーい! マジですか?」
金子も目をキラキラとさせている。紗津姫は少しこそばゆそうな表情。
「なんでも将棋女子という特集らしく……」
「将棋部の風景を映すってことでしょ? そ、それってあたしも出られる?」
「ええ、少しは映ると思いますよ」
「やったあ! 全国デビューよ!」
「お前なあ、主役は先輩なんだから自重しろよ」
もっとも、依恋が目立とうとしたところで上手に編集されてカットされるに決まっているが。
「ふふ、別に主役じゃないですよ。大勢の中のひとりというだけです」
「へえ、じゃあ他にはどんな人が出るの?」
「聞いたところによると――出水摩子さんも」
来是の脳裏に、あの冷たい目つきが瞬時に浮かび上がる。
紗津姫に勝った女流アマ名人。今度アマ女王の座をかけて紗津姫に挑戦してくる――敵。
「ま、負けてられませんね!」
「何にですか?」
「えーと……」
反射的に変なことを言ってしまった。来是は反省して、もうおとなしく勉強することにした。
正午になると昼食休憩。依恋が茹でた蕎麦は、昨夜の米のように絶妙な固さを残した仕上がりでたいへん美味かった。それから蕎麦にはわさびを入れるべきか入れるべきでないか、どうでもいいような議論で盛り上がった。
食事を済ませたら、また数時間の勉強。全教科をあらためてざっと復習する。もう依恋の助けがなくとも、だいたいわかるようになったが、結局紗津姫から教えられることはなかったのが、ちょっと残念だった。
「依恋、ただいまー」
「お土産買ってきたわよー」
玄関のほうから依恋パパとママの声が飛んできた。
「合宿、ここらで終わりにしましょ」
「そだな」
夫妻が和室に顔を見せた。ドイツ人ハーフの依恋パパは、彫りが深く愛嬌のある顔立ちで、陽気に笑ってみせた。
「やあ、来是くん。それから将棋部のみなさん。いつも依恋が世話になっているね」
「こちらこそ、おかげさまで楽しい部活を過ごすことができています」
紗津姫が丁寧に挨拶する。その態度に、彼も好感触を示した。
「この家はちょっと広すぎる。私は週末も家を空けることが多いし、いつでも合宿に使ってくれて構わないからね」
「ありがとうございます。あんなに素敵な盤駒、私たちだけが触れるんですよね」
「依恋、紅茶を淹れてきて。みんなで一緒にケーキを食べましょ」
「うん!」
甘いケーキとかぐわしい紅茶。そしてなんでもないような楽しい会話。心づくしの時間を過ごして、将棋部一同は碧山家を辞した。
「あー、なんか一週間分は勉強したような」
来是は西日が浮かぶ空に向かって、思い切り背伸びする。
「これだけやったんだから、学年十位以内を目指しなさいよ」
「臨時の部費は欲しいけどな、そりゃちょっと無理だろ」
「じゃあ、もうちょっと現実的な目標として、どれか一教科だけでも百点を目指すとか」
紗津姫が言った。少なくとも学年十位以内よりは難易度低そうだった。
「それなら、なんとかなるかもですね」
「ふふ、もし春張くんがその目標を達成したら、依恋ちゃんがご褒美をあげるとかどうでしょう?」
「ご、ご褒美?」
「それいいですねえ! 春張くんはどんなことしてもらいたいです?」
嬉しそうに悪ノリしてくる金子。それ以前に紗津姫がそんな提案をすることが意外だったが。
「んー、メイド服を着て、ご主人様って呼んでもらうとか。演劇部にメイド服があるって話があるし、それを借りてさ」
「バ、バッカじゃないの? 変な漫画の読みすぎよ!」
妙にムキになって怒る依恋。適当に答えただけなのだが、ちょっと考えが変わってきた。
女の子らしくなってきたとはいえ、基本的に依恋は強気でできている。それが演技とはいえ、何でも自分のいいなりになるのだとしたら……。
「ダメか? 依恋」
ダメに決まってるじゃないと言われるかと思ったら、依恋は答えた。
「……い、いいわよ。本当に百点取ったらね!」
「よし、女子に二言はないぞ」