【本格将棋ラノベ】俺の棒銀と女王の穴熊
俺の棒銀と女王の穴熊【3】 Vol.9
☆
――自らを敗北に追いやる一手を、自分自身で指さなければならない。こんな屈辱的なことはなかった。
来是は己の情けなさで震えながら、敵の駒を持ち上げる。自玉に王手のラッシュをかけること、すでに四度。そこで出水は宣告した。
「あと七手で詰むけれど、まだやるの?」
「……いや、負けました」
背中を向けてこちらを見ていない出水に向かって、来是は小さく頭を下げた。
駒損がひどく、もう何手も前から自分の負けは見えていた。だがどうしても投げられなかった。その結果、ひどい終局図になってしまった。
とても紗津姫に見せられるような内容ではない。今まで経験したどんな将棋よりも悔しかった――。
「ありがとうございました、っと」
出水はゆっくりと体を反転させた。今の対局に、何の感慨も湧いていないことがよくわかる表情だった。
「もうちょっと早く投了させる予定だったんだけどね。延命のためだけに粘るってのはやめてもらいたいわ。ま、最後の最後まで私が間違えることを期待したんだろうけど」
盤面が見えていないことなど、女流アマ名人はまるで問題にしていなかった。背中に目が付いているのではないかと何度も疑った。それほど彼女の将棋は正確無比だった。
来是にも反省点はある。全力でぶつかろうとする気持ちの裏で、間違えて反則負けしてくれというつまらない期待が、何度も頭をよぎっていた。それが指し手を鈍らせてしまったのではないか――。
「……負けました」
「ありがとうございました。依恋ちゃん、全然集中できていませんでしたね? ダメですよ」
「だって……」
紗津姫と依恋の対局は、紗津姫が勝っていた。盤を覗いてみると、ほとんど一方的だった。
「春張くんの対局が気になっていたんですか? 仲間の勝敗が気になるのは当然ですけれど、そのせいで自分の将棋がおろそかになってしまうのは、団体戦でもっとも避けなければならないことですよ」
「その点、金子さんはこっちに集中していたな。見事に負かされたぜ」
関根と金子の対局は、金子が完勝したようだ。
「いやまあ、私には春張くんを気にかける理由もないですし」
「どういう意味だ、それ?」
「そのまんまですって」
――それにしても、悔しすぎる。
棋力の差はどうしようもないが、あんなものは自分の本来の将棋ではなかった。目隠し将棋という異様なシチュエーションを仕掛けられ、必要以上に緊張してしまった。
来是は自分の課題を自覚する。精神面の不安定さ。
常にベストを出せる、それが真に強い将棋指しだ。いかなる状況でも動じないメンタルを身につけなければ、紗津姫を超えることなど到底叶わない――。
「じゃあ組み合わせを変えましょう。春張くん、私とやりますか?」
「いや、もう一度出水さんとやらせてください」
来是は姿勢を正して、駒を初期状態に並べ直す。
今まで紗津姫の申し出を断ったことなどなかった。だが、紗津姫にたくさん教わりたいという考えは今は吹き飛んでいた。
まずはこの女流アマ名人を相手に納得のいく勝負をしなければ、この合宿、先に進めない。
「ムキになっちゃって。じゃあ今度は目隠ししないで、全力でやってあげる」
「望むところです!」
他のメンバーの準備が整わないうちに、来是と出水の第二ラウンドがはじまった。
今度は正面から顔を合わせている。全力でやるというのは偽りではないのだろう。針で刺すような鋭利な気迫が、出水の目元から漂ってきた。彼女の白魚のような指先からも、手心など加えないという意思がほとばしっている。
出水は来是を指導するつもりなどない。
ありがたいことだ。来是はそう思った。自分のような級位者が、これほどの人に本気で指してもらえる。
俺は恵まれている――その感謝の念を全身に染み渡らせた。紗津姫も常日頃、口にしている。感謝こそが駒の動きを伸び伸びさせるのだと。
よどみなく三十手ほど進む。出水は「一歩千金」と揮毫された扇子を扇ぎながら盤面を眺めている。
「ふうん。今度は銀多伝で来たか」
【図は▲4六銀まで】
銀多伝とは二枚の銀がスクラムを組むように戦線に進出する、二枚落ち定跡のひとつだ。
来是はそれから飛車を中央に振り、玉を右翼に移動させる。居飛車党の来是だが、駒落ち戦においてはそのスタイルにこだわらず、最適な駒の運びを心がけることが大切だと教わっている。
これまでは、最善の進行だ。そう自信を持って言えた。
「さて――と」
出水は先ほどの対局では、大駒がないのに構わず、隙を見つけては速攻を仕掛けてきた。来是はそれに萎縮して疑問手悪手を連発してしまったのだが、本局では攻め急がない方針のように思えた。
じっと守りに専念して、相手の緩手を待っている。
ならば自分も、着々と戦闘準備を整えるだけだ。来是はいっそう精神を研ぎ澄まし、盤面に没入する。
そして、歩の突き出しから開戦を仕掛けた。
出水はいくぶんか時間をかけて応じる。彼女もまた歩を進軍させてきた。
【図は△6六歩まで】
△6六歩。
放置しておけば△6七歩成とされて論外だから、ここは取る一手だ。
選択肢はふたつ。歩で取るか、角で取るか。
角で取るのは必然的に金との交換になり、駒損に陥る。この女流アマ名人相手に強力な角を差し出してしまうのは怖い。だが――。
来是はふたつの選択肢をじっくり検討することはしなかった。決断まで、ほとんど時間はかからなかった。
▲6六同角。一気呵成に切り飛ばす。
「――」
出水の眉根にほんのわずか、皺が寄った。狙いを逸らされた、というかのように。彼女の表情の変化で、来是は自分の選択が正しかったことを理解した。
この局面、駒損を避けるために、歩で取るのが当然のように思われる。しかしそうすると、その歩が邪魔して角道が止まってしまう。
これでは角を渡してはいないものの、まったく活用できない。いわゆる「筋が悪い」とされる手であったのだ。
来是はそれを直感で読み取ることができた。ここは駒損をしてでも、角を活用するほうが勝る、と。
「ふん……」
面白くなさそうに、出水は角と金の交換に応じた。
それからは、来是のペースで指し進めることができた。奪われた角を打たせる暇を与えず、伸びやかに攻めていく。後方に控える飛車の存在感が抜群だった。
「――負け、ね」
飛車が龍に成ったところで、出水は軽く頭を下げた。
【投了図は▲6三飛成まで】
勝てた。
まさか勝てるとは思わなかった。来是は喜ぶより先に驚いていた。まだ紗津姫との二枚落ちを卒業できていなかったのに、紗津姫と同じ力を持つ出水には完勝できた。
ひそかに手を抜かれたということはあるまい。つまり――このたった一局で、自分の棋力は伸びた? はたしてそんなことがありうるのだろうか。
ありうる、のかもしれない。それが将棋の面白さ――。
「さっきよりずいぶんマシだったじゃない。あれ、絶対歩で取ると思ったのに」
「いや、まあ、上手くいってよかった」
「勘違いしないでよ。別にあんたの実力じゃないわ。日頃の紗津姫ちゃんの教えが上手だってことでしょ」
紗津姫の教えを実践できた本人の実力――とは言いたくないようだ。
「摩子ちゃん、素直に褒めてあげてください。春張くんには、確かな実力が備わりつつあるんですよ」
金子との指導対局を終えた紗津姫が、盤を覗きに来た。ねぎらいの笑顔を向けられ、来是の心臓は口から飛び出そうに跳ね上がった。
「ま、ああいう指し方ができるんだったら、次は方針を変えるわ」
「ええ、ぜひもう一度叩き伏せちゃってください」
「いいの? 自信なくすくらいに負かしちゃうわよ?」
「春張くんは、どんなにやられてもへこたれませんから。ね?」
「お、おうですよ」
この合宿で、何度でも負けるだろう。自分の弱さを思い知るだろう。
しかし怖くはない。すべては、この愛しい先輩を超えるため――。
「今度はあたしがやる! 勝負しなさい!」
依恋がずかずかと歩み寄ってきた。強引に来是をどかして出水の前に座る。
「威勢がいいわね。彼と同じくらいの棋力?」
「そうよ。来是が勝てたんだったら、あたしだって勝てるはずよね」
「単純だなあ……」
天野宗歩の本をバカにされた借りを、今こそ返すときだと思っているのだろう。ここは素直にやらせてやろうと思った。だから――。
「先輩、今度は俺とお願いします!」
「ええ、じっくり教えてあげますよ」
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