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金子とは今のところ飛車落ちの手合いだから、駒損があっても容易には負けないと思っていた。しかし本局の金子はやたらと調子がよく――加えて来是はいきなりの悪手で平常心を欠いていた。結果、ねじり合いの末に負かされてしまった。
「ありがとうございました! やった、春張くんに初めて平手で勝ちました!」
「むぐぐ……なんて情けない……!」
勝てるはずの相手に真っ向勝負で負ける。これも将棋の恐ろしさだ。そして悔しさは二倍にも三倍にもなる。
「いやあ、この戦法すごくいいですね! ぜひとも使いこなせるようになりたいです」
「じゃあ、残りの時間は金子さんとマンツーマンでやりましょうか」
「おお? いいんですか?」
「こんなに気に入ってくれるとは思いませんでしたから。いろんな変化がありますので、みっちり教えてあげます」
来是にとってはありがたくない展開になってきた。一番棋力が足りない金子を集中して鍛える必要があるのは確かだが、まさか練習が終わるまでずっと付きっきりでいるつもりとは。
こうなったらあまり気乗りはしないが、素直に出水に教えてもらうことに――。
「私、ちょっと昼寝してくるわ」
出水はそう言って、あっさり退出した。紗津姫にかまってもらえないなら、ここにいる必要はないと判断したようだ。
「勝手に参加したり勝手に抜けたり、なんなのよ」
「ま、しゃーない。俺らは詰将棋でもやってるか」
「そうっすね……」
関根が持ってきた詰将棋本は、長手数の問題が多く、だいぶ難易度が高かった。合宿のメニューとしてふさわしいといえばふさわしい。しかし今まで5手詰がほとんど、長くても7手詰しかやってこなかったので、脳の疲労度が段違いだ。依恋は早くも悲鳴を上げてしまった。
「もっと簡単なのにしましょうよ!」
「いや、これができるようにならなきゃ!」
紗津姫を超えることはできない。
時間はいくらあっても足りない。彼女が卒業するまでに、そこらの有段者など及びもつかないほどの棋力を身につけなければならない。そのためには、血ヘドを吐くような努力が必要なはずなのだ。
依恋は大きな溜息をついた。
「しょうがないわね。あたしも付き合ってあげるわよ」
「おう、ひとりでやってもつまんないからな」
ふたりは盤の前に座り、ピクリとも動かずに局面を凝視する。
「んじゃ、答えがわかったら呼んでくれ」
関根はもうひとつの盤で別の問題に取り組みはじめた。
脳がとろけるまで考えてください――とある高名な棋士の言葉として、紗津姫が教えてくれたこと。
雑巾を絞るように、脳汁が鼻から垂れ流れるほど、頭の回路を高速回転させる。そしてひとつの局面だけに何十分でも何時間でも集中する。そうした経験を経なければ、真の将棋の力は身につかない。
部屋はすっかり静かになった。金子をマンツーマン指導している紗津姫も、おそらく意識して声を抑えてくれている。それに合わせて、金子も小声で応えている。
その静寂はやがて、戻ってきた出水によって勢いよく破られた。
「紗津姫ちゃん、三時のおやつ食べよ!」
「そうですね。ちょっと小休止しましょうか」
「はいです。春張くんも碧山さんも、お茶にしましょー」
いったん将棋盤を隅に除けて、お茶の用意をする部員たち。
しかし来是と依恋は、その場から動かない。
「なに、詰将棋やってるの。……ああ、これはああしてこうして、11手詰ね。級位者の手には負えないんじゃない」
出水は局面をパッと見ただけで、答えがわかってしまったらしい。
彼女も当然のように、何百回何千回と脳をとろけさせてきたのだろう。だからこそ方程式のように、いかに難解な局面でも正解に至る道が見える。
自分も、そうならなくてはならない。来是はこれが解けるまで立ち上がらないと決めた。
「依恋、休まないのか」
「あんたに付き合うって言ったでしょ」
依恋は先ほど購入した温泉まんじゅうを持ってきた。ありがたく燃料補給させてもらって、来是は引き続き考え抜く。依恋は力を共有するように彼に寄り添う。
そのまま三十分が経過した。他の面々はとうに休憩を終えてそれぞれの練習をこなしている。出水は再び部屋から消えたが、来是も依恋もまるで気づいてはいなかった。
そして――。
「あ、わかったかも」
「待って、あたしも……うん、これ、いける!」
「ほー、ふたり同時にわかったのか? じゃあ答え合わせするか」
関根は自分が触っていた盤を寄せてきた。紗津姫と金子も一時練習を中断して、様子を見に来る。
来是と依恋はそれぞれ、初形に並べられた盤を眺める。
ふたりは息を合わせて、正解に至った喜びを噛みしめるように、ゆっくりと着手する。
そして両者、間違うことなく見事に詰ました。
惜しみない拍手の音が鳴った。紗津姫のはちきれんばかりの笑顔が、来是の疲労した脳をたちどころに癒やした。
「素晴らしいです! それにふたり同時に正解するなんて、美しいですよ」
「いや、答えがわかったのは俺がちょっと早かったはずなんで!」
「な、何言ってんのよ。同時ってことはあっても、あたしが遅れたなんてことはないわよ」
「俺のほうが早かった!」
「同時だったってば!」
「もうー、仲がいいですねえ! このこの」
金子は何やら上機嫌に、ふたりの肩をバシバシ叩いていた。