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風呂から上がり、コンビニ弁当を腹に収めると、いよいよチェスの時間となった。
将棋の合宿だというのにチェスというのも、あらためて考えれば妙な話なのだが、ふたつとも源流を同じくするボードゲーム。文化面からの理解を深めるのにはいいかもしれなかった。
「お邪魔します」
紗津姫を先頭に、浴衣姿の女性たちが来訪する。
「――」
昨日から見ていたが、この夏らしい和装は、水着とは違う感動を与えてくれる。肌の露出はないに等しい。しかし、たとえようもない大和撫子の色気がそこにある。その薄い木綿の下は下着だけなのだと思うと――。
「ふふ、来是ってば、あたしに見とれてばかりね」
「な、なに言ってんだよ。俺は先輩を見ていたんだ」
「またまた。素直になりなさいよ」
「ええい、もういいから座れよ」
一気に手狭になった部屋の中心で、斉藤先生が折りたたみのチェス盤を広げ、駒を所定の位置に並べた。
「チェスのルールはわかるか?」
「俺は子供の頃、家に安物のチェスセットがあったんで。まあ将棋と同じく基本的なルールを覚えただけですけど」
だいたい皆、来是と同じだった。依恋などは両親がチェスを趣味にしているそうで、子供のときはたまに付き合っていたそうである。
「ところでチェスの駒ってアレに似てませんか? 特にポーンとか」
「金子さん、頼むからそういうのは心の中だけで思っててくれ……」
・駒が白と黒で色分けされている。
・マス目は8×8。
・取った駒の再使用はできない。
・一番奥のマスまでポーンを進めるとプロモーション(昇格)ができる。ほとんどの場合はもっとも強力なクイーンになる。
将棋との違いをざっとおさらいした。
特に注目すべきは、駒の再使用ができない点だ。というより、持ち駒ルールがあるのは、この系統のゲームでは将棋だけだという。
「なぜ日本の将棋だけそのようなルールになったかは、よくわかっていないんですよね。本当に不思議です」
「歴史のミステリーですね……」
「そういえば持ち駒ルールに関して、こんなエピソードがあります。敗戦後、GHQが将棋のことを聞きたいと、棋士を呼びつけたんです」
「升田幸三ね」
「有名な話だな」
即座に反応する出水と関根。過去の棋士についてはあまり知らない来是だが、升田幸三という棋士が、歴代最強の名人といわれる大山康晴の最大のライバルであることだけは知っている。
「日本人の精神がどういうものか、将棋を通じて分析したかったんでしょうね。それであちらはこんなことを言いました。『我々がたしなむチェスと違って、将棋は取った駒を自分の兵隊として使用する。これは捕虜の虐待と同じではないか』と」
「なによそれ、言いがかりも甚だしいわ」
ムスッとする依恋。本気でそう思ったのか、単なる嫌がらせだったのかはわからないが、将棋を愛する人間にしてみれば侮辱でしかないだろう……。
「しかし升田幸三はこう返しました。『チェスで取った駒を使わないことこそ、捕虜の虐殺である。日本の将棋は敵をそのまま元の待遇で仕事をさせているのだ』と」
「うわあ、カッコいい!」
金子が眼鏡の奥をキラキラさせた。来是も思わず唸ってしまった。まるでドラマのような台詞回しではないか。
そこへ出水が口を挟む。
「そのときの升田は、ビール片手に酔っ払ってたそうよ。冷静に反論したんじゃなくて、酔っぱらいが好き放題にまくしたてただけなの。だからあんまり真面目に受け止めないほうがいいわ」
「そうですね。いずれにしても、チェスが将棋に比べて劣るということではありません。このエピソードから私たちが学べることは……何かについてこちらとの『違い』を見つけたら、それを美点とか欠点とか捉えずに、ただそういうものだと受け止めるべき、ということです。世界中の人間、文化、競技、すべてが違って当たり前。こちらはどうだとかあちらはどうだとか、優劣をつけることは間違っています。升田幸三だって、本当なら将棋を論争の道具には使いたくなかったはずですよ。これもまた、戦争の悲劇だと私は思っています」
「なんだか神薙のほうが先生らしいなあ」
斉藤先生は苦笑いしつつ感心していた。
紗津姫は日本文化を愛している。しかし世界で日本文化が一番などとは、かけらほども思っていない。来是もこの謙虚な姿勢を真剣に学ぼうと思った。