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俺の棒銀と女王の穴熊〈5〉 ~女流名人、あるいは奨励会三段~ Vol.9
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俺の棒銀と女王の穴熊〈5〉 ~女流名人、あるいは奨励会三段~ Vol.9

2014-08-25 18:00
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         ☆

     三月に入った。
     寒さもだいぶ和らいできたが、今日は未明から曇り空で辛気くさい空気だった。午後からは一雨降るとの予報もある。大和は無表情で天を見上げ、傘を持って自宅を出発した。
     本日が三段リーグの最終日だ。関東と関西で日を分けて行われることもある例会だが、最終日は必ず同時に行われる。そしてプロもアマチュアも問わず、新たな棋士の誕生を心待ちにする。外野から眺める分には気楽だが、昇段の目がある弟子を持つ師匠などは、一日中気が気でない。
     そして、今日を区切りとして奨励会を去る者もいる。
     年齢制限という鉄の掟により、容赦なく弾き出される敗者。明日からは一アマチュアであると冷徹な宣告を受ける。
     そのうちのひとりが、大和の一局目の相手だった。
     普段どおりに将棋会館に到着し、対局室に向かう。
     空気が通常よりも重く、淀んでいるように感じた。負のオーラ、とはっきり言ってしまって差し支えない。影も形もない何かが、数多の若者の夢を飲み込み、そうした空気に変換しているのだ。
     大和は盤の前で、開始時刻を静かに待つ。
     対局相手の猿渡裕也(さるわたり・ゆうや)三段は、辛苦の滲み出る顔で自分の王将あたりに目を落としていた。
     ここまでの彼の勝ち星は、わずか四つ。だいぶ早い段階で、青春のすべてをかけて目指してきたプロへの道が閉ざされた。
     彼は小学生名人戦で好成績を残し、奨励会に入った。およそ十五年。大和が女流プロ入りする前から、この世界に身を置いてきた。長い奨励会人生の中で、何度、彼の玉は討ち取られたのだろう。その敗戦を糧にすることもできなくなった。
     しかし、猿渡に同情する余裕も意味も、大和にはない。むしろカモと捉え、しっかり白星を稼がせてもらう――。
    「お願いします」
     一局目が始まった。先手の猿渡は▲7六歩と王道の出だし。大和も即座に、同じく角道を開けた。
     それから互いに飛車先の歩を伸ばし、金を上がって角頭を保護し――横歩取りの戦型となった。
     女流棋戦だと、横歩取りになることはあまりない。大和が本格的にこの戦いを勉強するようになったのは、奨励会に編入してからだ。まだまだ熟知しているとは言えない。
     無論、大和には拒否する選択肢もあった。横歩取りは後手が誘いに乗ることで、初めて可能となる戦法である。
     だが、プロを目指すならば逃げてはいけない。堂々と受けて立つ。視線に力を込めて彼女は着手する。
    「――ッ」
     大和の繰り出した手に、猿渡はにわかに眉をひそめた。明らかに予想外だという目つき。

    【図は△6二玉まで】
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     二十二手目、△6二玉。
     あらかじめ、飛車の脅威から遠いところへ逃げておく。なんでもなさそうな手だが、つい最近まで公式戦でこの形が現れたことはなかった。というのも先手がこの瞬間に角交換を仕掛けて、一気に乱戦になる恐れがあるからだ。
     しかし検討してみると、決してこの手は悪くないことが明らかになった。現在、この形は横歩取りの最先端として掲げられ、多くの棋士が研究するに至っている。先日、大和が伊達に教授してもらったのも、まさにこの戦型だ。
     超急戦を試みるか、それとも自陣を整備してから穏やかに指すか。猿渡の選択によって、大和の方針は大きく異なってくる。しかし、伊達はこうもアドバイスしてくれた。
    「おそらく、相手は角交換しない」
     横歩取りはただでさえ一手のミスが致命的になる戦法。わざわざ危ない橋を渡る選択はしないだろう、というのが彼の考えだった。
     だが、この猿渡は勝とうが負けようが、もう退会が決まっている身だ。どうにでもなれ、と超急戦を挑む可能性も充分に考えられた。
     その上で、大和は△6二玉を選んだ。彼にもプライドがあるはず。むやみに誘いに乗らず、きっと安全策を採るだろうと。
     奨励会員として戦うのも今日が最後。せめて女流には負けたくない――そんなことも思っているに違いないと考えて。
     はたして、猿渡が選んだのは▲5八玉。玉の安全度を高める無難な一着。
     狙いどおり。大和は心の中でつぶやいた。
     玉の位置が一路違うだけで、まったく定跡から外れるのが将棋というゲームの怖いところであり、面白いところ。大和もある程度は研究してきたとはいえ、基本は自力の勝負だ。頭ではなく腕力でねじ伏せる。それができなければ四段にはなれない。
     ――六十手を超え、互いの玉に王手がかかるようになった。猿渡は玉を早々と上部に抜け出させ、大和は下段に龍を作って追いかける。
     成績不振のリーグ下位者とはいえ、やはり猿渡は奨励会最強の三段だった。相当にこちらが危うくなっている。自陣には猿渡の馬が食い込み、彼の駒台には飛角銀桂香と揃っている。あちらの手番だったら間違いなく詰まされている。
     一手間違えれば頓死という局面だ。しかも先手玉を一気に詰ます手段は、今のところない。まずは自玉の即詰みを防がなければならない。
     わずかな残り時間の中――大和が選んだのは、龍の王手で合駒請求。守りに駒を使わせることで自陣への脅威を減らす。猿渡は香車を打ち、それから大和は香の隣の金を奪取して必至をかける。
     結果として、これが決め手となった。もう間違いようのない局面になり、猿渡の眉間の皺はさらに深くなる。
     わずか数手後、彼は形作りをした上で潔く投了した。

    【投了図は△6三玉まで】
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