【本格将棋ラノベ】俺の棒銀と女王の穴熊
それから角換わり腰掛け銀や横歩取りの最先端を並べながら、ひとつひとつ有効そうな手を精査していく。
持将棋、千日手という例外はあるが、将棋は必ず勝敗がつくゲームだ。したがって詰みまで同一局面で終わるということは、プロの公式戦ではあり得ない。負けたほうは不利になる前に変化を試みる。結果、勝利を収めたとしても、次はそのとき敗北した側が、まったく別の改善策を講じてくる。その繰り返しで、宇宙的規模、いやそれ以上の可能性が八十一マスの小さな盤上に広がっていく。
スーパーコンピューターですら手に負えない、将棋の可能性。それを人の身で追及していくことに、大和は高揚を覚える。
しかし目の前の名人は、もうそんなことは二の次なのだ。今は妹弟子のために膝を突き合わせているが、あの宣言以降、研究の時間は大幅に減らしたという。代わりに何をしているかといえば……。
「事業家に転身するみたい」
大和は本棚に目を留めた。かつては棋書しか置いていなかったそこには、ビジネス関連の書籍が並んでいた。
「今まで知らなかったことの連続で、新鮮だよ」
「将棋の普及に、必要なの」
「ああ、ビジネスの知識もないと。単に名人というだけじゃ、不十分だ。ただでさえ、将棋しかやってこなかった人生だからね。勉強するべきことはたくさんある」
「……もしかして、会長を目指したりしてる?」
「まあね。それも、できるだけ早く。かつて三十代で会長になった人がいたから、異例というわけでもない」
正式に決定したわけではないとはいえ、伊達は完全に引退後を見据えていた。
彼が将棋連盟の会長となり、今までとはまったく違うアプローチと革新的なアイディアで将棋普及が進められる――遠くない未来に実現することだろう。
歓迎したい気持ちと、そうでない気持ちが大和の中で衝突する。
とにもかくにも、今度の名人戦は防衛してもらわなければならない。このモヤモヤした心は、その結果をもってしか晴らせない。
そして自分は、来期には必ず三段リーグを抜けるのだ。そのためには修行あるのみ。
「もう帰る」
「次は、最後の例会のあとだな。連勝を期待するよ」
「うん」
伊達家を辞した大和は、自宅へ戻る前に新宿駅近くの大型書店に寄った。先日刊行された、若手棋士の実戦集を買うためだ。
本屋の将棋コーナーの前に立つたびに、つくづく思い知らされる。棋書の執筆者は、九割以上が男性棋士だ。男性棋士と女流棋士の差は、このようなところでも現れている。
大和も本を上梓したことがあるが、女流プロ入り前後や子供時代のエピソードを主眼にした読み物だった。若き女流の第一人者としての話題性もあり、よく売れたそうだが、大和は満足していなかった。
アマチュアだけでなく、プロも参考にするような本格的な棋書。彼女が本当に書きたいのはそういうものだ。しかし、今は実績も実力も不足している。四段に上がれないうちは、依頼が来ることはないだろう。
大和は帰宅すると、さっそく盤の前に座り、買ったばかりの実戦集を広げる。
本のタイトルは『豊田の将棋 実戦と研究』。著者の豊田一章(とよだ・かずあき)八段は、まだ弱冠二十四歳――つまり大和と同い年ながら、今期から順位戦A級に所属している新鋭。将来の名人は確実と目されるほどの逸材だ。
そして、伊達が一番警戒している相手。必然的に、大和にとっては面白くない男ということになる。
「おのれ、豊田」
大和は呪詛のような言葉を吐きながら、棋譜並べをしていく。
悔しいが、彼の将棋は素晴らしい。居飛車も振り飛車も高いレベルで指しこなす、天才オールラウンダーだ。そういう意味でも、伊達名人の後継者にふさわしいのは豊田八段かもしれない。多くのファンも、そう期待している。
しかし、もうしばらく待ってもらいたい。だから現在トップの山寺八段には、なんとしても頑張ってもらわなければ。
激励でもしたいところだが、さすがに「山寺さん相手なら伊達名人は防衛できる」と言うわけにもいかない。順位戦最終日は、遠くからひっそりと祈ることになりそうだ。あるいは、鳩森神社で願掛けするのもいいかもしれない。普段神頼みはしない大和だが、かなり本気だった。
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