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俺の棒銀と女王の穴熊〈5〉 ~史上最躍の棋士~ Vol.3
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俺の棒銀と女王の穴熊〈5〉 ~史上最躍の棋士~ Vol.3

2015-01-05 18:00
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     パソコンをスリープ状態にしておき、スーツに着替える。大熊は将棋教室で教えるときは必ずスーツだ。教え子はもちろん、その後ろにいる親にしっかりした姿を見せるためである。棋士という職業は礼儀正しくなければならない。それを普段の姿から知ってもらう必要がある。
    「んじゃ、行ってくる」
    「行ってらっしゃい」
     いつものやりとりをして家を出る。将棋教室は自宅から歩いて十分の市民センター。将棋教室を開きたいと、窓口に申請に行ったときのことを思い出す。将棋のプロであることを証明するものはあるかと聞かれてしまった。名刺を出すと信じてもらえたが、プロである証明とは何なのか、時折考えることがある。
     無論、奨励会を卒業して連盟所属の棋士として登録されていることが、これ以上ない証明には違いない。
     しかし今、プロより強いアマチュアや奨励会員はざらにいる。彼らより弱い者が、プロを名乗る資格はあるのだろうか? アマチュアのレベルがかつてないほど上昇している時代である。このような問いを投げかけられることも増えてきた。
     大熊はこの問いに対する答えを、すでに出している。
     強さだけがプロの証明ではない。
     フリークラスの言い訳に聞こえてしまうだろうから、公の場で発言したことはない。だが大熊は確固たる信念を持って、そう思うようになった。
     市民センターに到着し、教室となる集会室に道具を運び込んでいると、生徒たちも順々に姿を見せてきた。
    「クマ先生、NHK杯残念だったね~」
    「でも、次があるって!」
    「そうだよ! 諦めるなよ! 熱くなれよ!」
     幼いから何の遠慮も知らない。大熊は苦笑いしながら粛々と準備を整える。
     妻が妊娠したこともあってか、最近は子供を見るだけで顔がほころんでしまう。子は宝とはよく言ったものだ。今日も何かしら言われるだろうと覚悟していたが、不思議と気にならなかった。
     教え子が全員揃ったところで、講義をスタートさせる。この教室に通う子供は、下は小学一年生から六年生までおり、棋力も初心者から初段目前までと幅広いが、大熊はひとつユニークな方針を導入している。
    「それじゃあ先週予告したとおり、今日は右四間飛車をやります。居飛車の戦法だけど、振り飛車の子もね、その受け方をしっかり知っておくのが大事です」
     はーい、と声が重なる。
     大熊は駒落ちでの指導を一切行っていない。戦法や手筋などを教えたら、あとは同レベルの子供同士で、ひたすら実戦をさせるのだ。
     この近辺には将棋道場がない。必然的に子供たちはインターネットに対局相手を求めることになる。そしてネット対局だと、駒落ちはほとんど行う機会がない。ネット対局で腕を磨いたプロが当たり前のように出現している今、まずは駒落ちという杓子定規な教え方はふさわしくないと考えている。
    「クマ先生は、右四間よくやるの?」
    「いやあ、先生はやらないな。というか、プロはあまり使わないんだよ。でもこの前、名人と戦ったときに、右四間で来られてね。驚いたよ」
    「だから勝てたんだよー」
    「はは、そうかもねえ」
     指導を進めながら、大熊は伊達のことを考えた。
     彼が名人位を失ったら引退すると表明したのは夏の終わり頃。以来、なぜか実験的な手を指すことが多くなった。
     ネットでも大金星と大きく取り上げられた、先日の伊達戦。名人ともあろう者が、攻めが単調になりやすいということで、プロ間ではあまり採用されない右四間飛車でかかってきた。確かに新機軸の仕掛けがあり、一手間違えればたちどころに悪くなっていた将棋だったが、大熊は受けの好手を発見することができた。自分にも疑問手があり混戦模様になったものの、逆転には至らず、名人撃破を果たすことができた。
     この手は見えなかったですねと、伊達は感想戦で何事もなさそうに言っていた。たいして悔しくなさそうだった。
     名人はもう勝つ気がないとまで噂されていて、そんなバカな話があるわけないと思ったのだが、いざ目の当たりにすると、本当なのかもしれないと疑念を抱いてしまった。無論、本人は決して認めないだろうが――。
    「先生、名人が使っても勝てない戦法に、意味あんの?」
     一番年長の生徒が、率直な質問をぶつけてきた。当然想定していた質問だ。
    「そう思うだろう? だけどね、アマチュアはだいたい受けが苦手だから。名人が、プロが使っても勝てない戦法だからって甘く見てると、いざやられて案外困る。だからみんなも右四間を使いこなせるようになれば、きっとガンガン勝てるよ」
     一通りの講義が終わったところで、さっそく実戦をやらせる。飛角銀桂を総動員させて一点突破を狙う右四間飛車は、決まればこれほど気持ちいいものはない。
     アマチュアは、特に級位者の子供は攻めることを第一に考えればいい。将棋とは何よりも玉を詰ますゲームなのだ。その楽しさを知らずして長続きはしない。そして、攻め続けて勝利を手にした子供の笑顔を見るのは嬉しい。
     もちろんその裏で、敗北の悔しい顔も見ることになる。だが負けの積み重ねが勝ちになるのだ。無駄な負けなど、ひとつとしてないということも、丁寧に教えていく。
     子供は指し手が早い。十分もすれば、あらかたの対局が終わる。今回もいくつもの笑顔が生まれた。
     アマチュアを、子供を笑顔に導く。それこそが強いだけで感情のないコンピューターにはできない、プロの仕事。数年間の将棋教室運営で得た答えだった。
     ――とはいえ、将棋ファンが一番に笑顔になるのは。
    「クマ先生、次の対局はいつー?」
    「十二月にいくつかあるよ」
    「応援するね! 中継あればだけど」
     勝利の姿を見せたとき。自分にはまだ、そのチャンスがある。
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