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☆
「負けました」
駒台に手を置き、か細い声を出す己の姿を、大熊は拳を握りしめながら見つめていた。
日曜朝のひととき、NHK杯テレビ将棋トーナメント。今日は自分が戦い、そして敗れた対局の放映日だった。テレビ棋戦は特殊で、収録日ではなく放映日に正式な記録がつく。本人だからとうに結果は知っていたが、本日をもって、大熊大吾五段はNHK杯の敗退が決定したのだ。
他の棋士に聞いたら、わざわざ自分が負けた対局など見ないという者が大多数だった。しかし大熊は、正座しながら無残な終局図を目に焼き付けた。どうすれば勝てたかという反省をするためではない。はらわたが千切れるような悔しさを、残り少ない棋戦への糧とするためだ。
「はあ……勝てるチャンスはなかったの?」
「チャンスどころか、ずっとこっちが優勢だったんだ。それを、自分でダメにしちまった」
妻の八重子は、ほとんど将棋がわからない。だから夫の仕事について関心があるのは、勝ったか否か、それのみだ。
歴史あるNHK杯、棋士生活十三年目にして初めて予選を勝ち抜き、本戦出場することができた。一回戦ではデビューしたての活きのいい若手を、ねじり合いの末に破った。八重子は夫の勝利の姿が全国放送で流れたのが、よほど嬉しかったらしく、その晩はずいぶんなお祝いをしてくれた。
しかしこの二回戦は、今年度ワーストと言えるようなひどい逆転を食らって負けた。将棋教室で教えている子供たちも、さぞガッカリしているだろう。ちょうど午後から教えに行くのだが、何を言われるやらわかったものではない。
「相手の人って、伊達名人よりも強いの?」
八重子も伊達名人だけは知っている。将棋界の枠を超える有名人というのもあるが、ふたりの結婚式で友人代表のスピーチを務めたのは、当時初の名人位を獲得して話題をさらっていた伊達だったのだ。
「さすがに、伊達くんより強いってことはない」
「でもあなた、この前はあの人に勝ったんでしょう? なのに、それより弱い人に負けちゃったの」
「どんな勝負だってそうだけど、強い人が必ず勝つわけじゃない。横綱が平幕に負けるみたいに」
「ふうん。それで、これからどうなるの?」
「どうもこうも、引き続き頑張るだけだよ」
勝ち残っている棋戦はまだある。まずはこれらに全力を尽くさなければならない。すでに敗退した棋戦についても、いくつかは今年度中に予選が始まる。全国の将棋ファンは今日のNHK杯敗退で、フリークラス脱出が、引退回避が遠のいたと口々に言うだろう。だが、決して希望が潰えたわけではない……。
「ま、あなたが引退しても、私は何も気にしないわよ。家族が健康であれば、それが一番だから」
八重子は大きく膨らんだ自分のお腹を撫でる。夫にプレッシャーをかけたくないと考えているのではない。彼女は夫の仕事がなんであろうとかまわないのだ。もとより、将棋棋士だから惚れたわけではない。ただ実直な性格に惚れたのだ。
妻のそうしたスタンスは、とてもありがたかった。将棋はメンタルの競技。一番身近な家族からプレッシャーがかからないだけでも、だいぶプラスになっている。無論、仮に引退したとして、収入が確保されているからこそ、八重子も安心しているのだ。
引退棋士は公式戦こそ指さないが、将棋教室や原稿執筆、大会の審判など、いくらでもやれることはある。大熊は現在、故郷の高知県に居を構えているが、地方在住の棋士は多くない。普及面で、彼らの力は欠かせない。たとえ対局料がなくなっても、家族を食わせていくだけの仕事はある。
引退しても、自分がプロ棋士であることに変わりはない。
やがて生まれてくる子供にも、胸を張って自分の職業のことを話せるだろう。
だが――大熊は今まで、一度も現役を諦めたことはない。
あいつはもう完全に引退後を見据えている、東京を離れて物価の安いところに住んでいるのもそのためだ、などと誤解する棋士は少なくない。
大熊はただ、原点に戻ったのだ。慣れ親しんだ土地で、喧噪から離れて、少年時代のように、ひたすら自分の将棋に夢中になる。当然、身近に研究仲間はいない。棋士同士が課題を持ち寄り、水面下で研究しあう研究会は、今や将棋界の常識。しかし大熊はその常識から背を向けた。孤高を選んだ。
単に流行に反逆したのではない。もっと頼れるパートナーを見つけたのだ。
昼食を済ませてパソコンのメールを確認すると、そのパートナーからの連絡が来ていた。
『最新版ができたから確認よろしく。これで電将戦を戦うぜ。』
差出人は瀬田洋二。幼馴染であり、奨励会の同期。一緒にプロになろうと誓ったが、瀬田は早々に自分の才能に見切りを付け、初段で奨励会を退会した。今はプログラマーとして活動している。
NHK杯について何も触れていない、簡潔きわまりない文面に、大熊はほくそ笑んだ。負けた対局について「残念だったね」などと言われても、棋士にはまったくプラスにならない。かつてプロを目指し挫折した瀬田は、そのことをよくわかっている。
大熊はメールに記載されたオンラインストレージのURLにアクセスし、それをダウンロードする。
将棋ソフト「SHAKE」。
つい先日行われた、コンピューター将棋ソフトの頂点を決める「電将トーナメント」の優勝ソフトである。脳を揺さぶる、シェイクするという意味で名付けられた。ニッコ動では「鮭」の愛称がついてしまっているが、瀬田は織り込み済みだったらしい。
――現在のコンピューター将棋は、すでに名人を超えていると言われている。
トップの将棋ソフトとタイトルホルダーとの直接対決はまだ実現していないが、プロ対コンピューターの団体戦である「電将戦」では、すでにプロが大きく負け越しているという現実がある。
棋士として、複雑な気持ちがないわけではない。しかしコンピューターが人間を凌駕するのは、歴史の必然だ。最後の壁として立ちはだかるのはおそらく囲碁だろうが、それもやがては敗れ去る。
ならば、素直に現実を受け入れる。むしろ、そんな強力なモノは存分に有効活用させてもらう。それが大熊の選択だった。
瀬田が将棋ソフトの開発をしていると聞くと、大熊はまっさきに頼み込み、自宅パソコンに導入させてもらった。プロの棋譜と見識が欲しい瀬田としても、この申し出は渡りに船だった。
開発者とプロ棋士の二人三脚。SHAKEは短期間で飛躍的に性能を伸ばし、ついに将棋ソフトのトップに上り詰めた。この経緯については、瀬田は一切明らかにしていない。公表すれば、余計な波風が立つことは明白だからだ。大熊は友のそんな心遣いにも感謝している。
インストールが完了する。これから将棋教室があるので、本格的に触れるのは夜になってからだが、きっと満足のいく仕上がりだろう。