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     ☆

「だあああ! どういうことだよ!」
 少し曇りがちな四月一日、来是は思い切り頭を抱えて叫んだ。
「これ、エイプリルフールのネタだよな?」
「んなわけないでしょ……」
「もう確定ですか……無念ですね」
 依恋と金子もノートパソコンの画面を覗きながら、切ない溜息を漏らした。
 将棋界も世間一般と同じく、四月からが新年度。新四段のリスト掲載、フリークラス転出者、そして引退棋士の発表が即日行われる。
 昨日から碧山家にてミニ合宿に入っていた彩文学園将棋部のメンバーたちも、その文字列を確認したのだった。

【大熊大吾 五段(フリークラス棋士規定により) 引退日付・最終対局日 未定】

 崖っぷちの棋士として愛されてきた大熊五段だったが、とうとう順位戦への復帰は叶わなかった。昨年末のクリスマスフェスタで会って以来、来是はますます彼のファンになっていた。携帯中継のない対局日は、一日中悶々として過ごし、翌日の結果発表を見ては一喜一憂した。
 そんな日々を送ることも、もうなくなってしまう……来是の頭に、激しい悲しみと悔しさが舞い込んできた。
「あの報道はいったい何だったんだ?」
「誤報だったってことかしら。だとしたら、ちょっと問題よね」
「抗議してやる!」
「まあまあ春張くん、落ち着いてくださいよ」
「ぐうう……」
 来是の憤慨も無理はなかった。一週間ほど前、全国紙で大熊五段の近況が取り上げられ、もう一敗たりともできないが、唯一残された棋戦で五連勝すれば引退回避ができると書かれていたのだ。ミニブログなどで何人かの観戦記者もその記事に言及し、否定はしていなかった。
 まだ可能性はある、来是のみならず、すべての大熊ファンが希望を持った。まさか大手メディアが間違うなどとは、微塵も思わなかった……。
「やっぱりあくまで、年度内に規定の成績を収めなくちゃダメってことですかー。年度をまたぐのはアウト、と。うちのおじいちゃんは、記者の勘違いじゃないかって言ってたんですけど、当たってましたね」
「金子さんのおじいちゃんも、大熊五段に注目してたのか」
「十年ぐらい前、指導対局を受けたことがあるって言ってましたよ。だから頑張ってほしかったみたいですけど……」
 非情な勝負の世界。一切を承知の上でプロの世界に飛び込んだのだ。本人もだいぶ前から覚悟はできていたのかもしれない。しかしファンの身にはあまりに辛い。
 来是はこれまで、夢中になれるようなスポーツ選手や芸能人がいなかった。ネットで話題という安易な入り方だったが、大熊は――生まれて初めて心から応援したいと思えた、真のプロフェッショナルであり、スターだった。
 もう彼を追いかけることはできない。気持ちを落ち着かせるには、もう少し時間がかかりそうだ。だが今は、懸命に戦い続けたその生き様に敬意を表し、楽しませてくれたことを感謝するべきだろう。
「俺は……どれほどの時が経とうとも、決して大熊五段を忘れない!」
「ところで引退した棋士って、どうするの? ちゃんと生活できるのかしら。年金をもらい始める歳ならともかく、まだ三十代でしょ?」
「依恋ってドライだな……」
「大事なことじゃないの」
「んー、そこはまあ、何とかなるんじゃないですか? 将棋教室も盛況みたいですし」
「来是くん、実はまだ希望はあるんですよ」
 リビングでお茶の用意をしていた紗津姫が、お盆を持って戻ってきた。いつもなら優しく湯飲みを差し出す彼女に見惚れるところが、すっかりポカーンとしてしまった。
「ど、どういう意味です?」
「私、名人から教えてもらったんです。どうしても気になってしまって、あの記事は本当ですかって。そうしたら、わざわざ関係者に確認して、記事は正しいって教えてくれました」
「ええ? じゃあ間違ってるのは、このお知らせのほう?」
「負ければ引退するのは変わりませんけど……ちょっと説明不足かもしれませんね。でも明日あたり、続報があるかもしれませんよ」
 来是は瞬時に元気を取り戻した。いくら情報が錯綜していようが、愛する女性の言葉なら、無条件で信じられる。
「よかった。本当にまだ希望はあるんですね!」
「っていうか、なんでこんなややこしいのかしら」
「もしかして、こういうの想定してなかったんじゃないですか? 一応復帰規定は作ってても、引退直前の棋士がいきなり成績がよくなるとか、今までなかったんでしょう?」
 金子の質問に、紗津姫は首を縦に振る。
「そもそもフリークラスに落ちてしまった棋士で、その後順位戦に復帰できた人は……これまでたったひとりしかいなかったと思います。そういう意味でも、大熊五段はすごいですよね」
「ええ、マジすごいっす! おし、元気が出たところで練習再開だ。やろうぜ依恋」
「まったく、調子いいんだから」
 そのとき、着信メロディが和室に響く。紗津姫の携帯だった。表示された名前を見て、彼女は小首をかしげた。
「あら、名人から……」
「伊達さん? また何かに出てくれっていうのかしら」
「あれじゃないですか? 名人戦の前夜祭とか!」
 依恋と金子が言っている間に、紗津姫は電話を持って再び退室する。
 クリスマスフェスタで語っていたように、伊達は紗津姫への未練を完全に捨てて、あくまでも仕事上のパートナーとして接するようになっていた。これほど魅力的な女性をあっさり諦められるというのは、自分からしたら信じられないが、ともあれ、もはや余計な障壁はない。
 あとは自分の頑張り次第。わずかな可能性だろうと、全力で突き進むのみだ。そう、大熊五段のように……。
 数分して、紗津姫は戻ってきた。
 その顔は、明らかに狼狽していた。携帯を握ったまま、座りもせずに呼吸を落ち着けようとしていた。
「紗津姫さん、どうかした?」
「え、ええ……大変なことになりました」
「な、なんです?」
「電将戦ファイナルの大将戦に、ゲストとして呼ばれました」
「おお! すごいじゃないですか」
 金子が拍手する。来是も思わずつられて手を叩いた。
 先月から予定どおり開催されている電将戦ファイナルは、現在のところプロ側から見て二勝一敗。才能にあふれる若手棋士がしっかり対策をすれば、コンピューター相手でもまだまだやれる。そう知らしめる途中経過だった。
 今後の副将戦、そして大将戦で初の団体戦勝ち越しがかかっている。相手のソフトは、これまでとワンランク違う強さと言われているが、きっと人間はやってくれるはずだと来是は信じていた。
「その日はもともと、ニッコファーレに行く予定だったですけど、さらに楽しみが増えましたよ!」
「……大変っていうのは、そのことじゃないんです」
「はい?」
 紗津姫は震えそうな唇から、衝撃の言葉を発する。
「大熊五段が、その大将戦に出ます」