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 最新の動画までチェックしたところで、SHAKEとのスパーリングに入る。この日課も、四月以降は行わなくなるかもしれない。大熊はこのソフトに、すっかり愛着が湧いていた。もう長時間の対局をすることはないにしても、アンインストールすることは考えられない。タイトル戦をはじめ、他の公式戦の難解な局面を調べさせたり、詰将棋作成のアシストに今後も役立ってくれるだろう。
 対局が始まって、六十手ほど進んだ。慎重に慎重にと心がけた結果、評価値は大熊のほうに傾いていた。ここで角を成りながら王手すれば、さらに優位になれる……。
「あ、やば」
 思わず声に出してしまったが、もう遅かった。成る操作をするところが、誤って不成を選択してしまった。実際の盤駒ではありえない、将棋ソフトならではのミスである。
 局面を戻して指し直すことはプロのプライドに関わる。誰も見ていなくても、どんな小さな不正もしない。その気持ちを忘れてしまったら将棋指しとしておしまいだ。幸い、これで形勢が一挙逆転ということはない。まだ大丈夫だ……。
 ところが、それっきりSHAKEはなんの反応も示さなかった。そして十分が経過したところで、なんと投了のメッセージが表示されてしまった。
「……は?」
 呆然、どころの話ではない。何が起こったのかまったく理解できなかった。
 だが、おそらくこれがバグであろうことは、プログラムの素人である大熊にもわかる。とにかく瀬田に報告しなければならない。連絡はいつもメールで行っているが、電話をすることにした。
 携帯にコールして状況を説明すると、瀬田は声を裏返して驚き、ちょっと待ってくれと言っていったん電話を切った。その三十分後。
「うかつだった。やっぱこういうとこで手を抜くべきじゃなかったな」
「なんで、ああなったんだ?」
「SHAKEはさ、読みの精度を上げるために、ありえない可能性については最初から切り捨ててた。プログラムしてなかったんだよ。飛車と角と歩がそれだ。成れるのに成らないことは普通ないだろ?」
「打ち歩詰め回避のために、あえて不成ってのは例があるぞ」
「もちろんわかってたけど、そんなの十年に一度あるかないかの話だからな……。でもこれは、SHAKEだけの問題じゃないんだよ。たったの5手詰でも、不成が絡むと解けないソフトが意外とあるんだ」
「へえ」

【5手詰】
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 この詰将棋の回答は「▲2三角不成、△2五玉、▲2六歩、△2四玉、▲3四金」までの5手詰。最初に▲2三角成としてしまうと、△2五玉に▲2六歩は打ち歩詰めで詰まないのだ。これがわからない将棋ソフトが、実は少なくない。
 詰将棋ではしばしば現れる不成による寄せだが、実戦では瀬田の言うとおり、十年に一度あるかないか。不成の選択肢を与えただけで、単純に考えても計算量は二倍になってしまう。
 ごく稀に、不成が最善手という局面が現れる……元奨励会員の彼は当然承知していた。それでも、読みの精度を深めるほうを優先してしまったのである。
「いや、教えてくれてありがとう。手元ではもう修正したから、すぐに送るよ」
「でも電将戦は……どんな理由があっても、もう差し替えはできないんだろ」
「……そうなんだよなあ。正直、このレギュレーションだけは納得してないんだよ。バグを完全になくしたプログラムなんて、不可能なんだから」
「ああ、それは俺も同情してる」
 電将戦に出場する将棋ソフトは、提出後は一切の修正が認められていない。去年の電将戦では、致命的なバグが発覚したとして、例外的に運営側が修正を認めたが、バグが直るのと同時に棋力そのものも上昇した。そのことで対局前に、棋士との一悶着が起きてしまった。この盤外の騒動は熱戦に水を差すこと甚だしく、ファンから大きな批判が起こる結果となった。この前例がある以上、SHAKEの修正が認められることは絶対にあるまい。
「播磨八段も、このバグに気づいてるかねえ」
「その可能性は、あるかもな」
 電将戦の大将、SHAKEの相手を務める播磨佑(はりま・たすく)八段。昨年A級に初昇級した気鋭の若手で、その色男ぶりは伊達名人と並び称されている。あいにく肝心の順位戦では結果が残せず、すでにB級1組への陥落が決定してしまっているが、電将戦では意地を見せてくれるだろうと期待されている。
「まあ気づいていたとして、A級棋士ともあろう人がバグを突いて勝とうなんて、万が一にも考えないだろうさ」
「だよな。そこはプロのプライドを信じてるよ」
 かつてプロを目指し、果たせなかった男の言葉には熱がこもっていた。
 電話を切ると、大熊は投了メッセージが表示されたままだったSHAKEをようやく終了させた。コンピューターにも、あんなミスがある。人間と同じく、まったく完璧などではない。そう思うと、いっそうの愛着が湧いてくるようだった。
 もしかしたら、他のソフトにも同じようなバグがあるのだろうか。もっとも、播磨八段以外の棋士たちもバグを突いて勝とうなどとは思わないはず。
 棋士はなくてもいい商売。だから見る者を楽しませる将棋を指さなければならない。升田幸三が残したこの言葉を、大熊はたとえ引退しても心の内に秘めていくつもりだった。