【本格将棋ラノベ】俺の棒銀と女王の穴熊
☆
「いやー、感想戦でもいきなり愚痴が飛び出してさ。まさか飛車を振るとは思わなかったって」
昼まで眠りこけ、まだパジャマ姿の夫に軽い食事を提供していると、弁舌爽やかに昨日の熱戦を語ってくれた。勝利の翌日は誰だって機嫌がいいものだが、名人挑戦にまた一歩近づいたとなれば、喜びもひとしおだ。高遠も自分のことのように嬉しかった。
「やっぱり、対策を外したの?」
「そうだよ。まあこういうのって、どれほどの効果があるかわからないんだけど、前日の研究が全部無駄になったってのは、やっぱショックなのかな?」
「それと、時間攻めもしたんじゃないかって話題になってて」
「ああ。田無さん、最後は時間に追われて疑問手を連発したしな。これは確実に成功だよ」
しれっとした顔で言う。やはりこの人は、名人になりたいのだ。無論そんなことはすべての棋士が思っていることだが――どんなことをしてでも、と頭につけられる棋士はどれほどいるだろうか。
いずれにしても、ここまで来たら全力でサポートするだけだ。ラストに向けて心身ともに充実するように、プレッシャーが少しでも和らぐように。
「それより、そっちはどうだった? まあ名人と神薙さんのコンビだから、失敗するわけないか」
「ええ、喜んでもらえたわ。すごく疲れたけど……。次やるときは、正式にバイトを雇わないとね」
「すっかりマスターが板についてきたな。最初は、君に飲食店なんて無理だろうと思ったけど」
「何事も継続よ」
「まったくだ」
「……それでね、カフェのほうに専念しようかなって、真剣に検討してるんだけど」
「……へえ」
女流棋士を引退することについては、これまで相談したことはなかった。しかし返ってくる答えは、予想できている。現役への意欲が薄れていることは、彼も察しがついているはずだ。
「いいんじゃないか。葉子がそうしたいなら」
「ありがと。今の言葉ですっきりしたわ。引退届って、どういう風に書くの?」
「やったことないから知らんよ」
今日はお互いに休息日。昨夜、息子の日向(ひなた)をずっと見てくれていた義母は、丸一日自由にさせてもらうと朝から映画を見に出かけた。日向は給食が終わったら家に帰ってくるが、さっさと友達と遊びに行って、夕方までは帰ってこないというのが平日の過ごし方だ。あと数時間は、ふたりきりで気ままに過ごせる。
将棋棋士は一般的に多趣味だ。サッカーなどのスポーツ観戦や、競馬競輪といったギャンブル、お隣の囲碁をたしなむ者も多い。しかし山寺は、これといってお気に入りの趣味を持ち合わせてはいなかった。せいぜい読書や録画したテレビ番組を見るくらいのもので、研究会を辞めた今、対局のない日はたいてい家にいる。
これはいささか健康に悪いのではなかろうか。
「フィットネスクラブとかに通ったらどう?」
「また唐突だな」
「あなたには長く現役でいてもらわないと。膝が悪くなって正座ができないから引退、なんてことがないように」
「……内田先生か」
先日、御年七十五歳の現役最長老である内田富士雄(うちだ・ふじお)九段が、引退を表明した。成績不振による強制引退ではなく、健康上の問題であった。もう正座ができない状態で、長時間の対局には耐えられないという。高遠にとっても山寺にとっても雲の上の存在だっただけに、引退はとても残念だった。
「まあ、七十五まで続けられたんだから、本人も満足だろうな。それより前に引退させられる人のほうが、圧倒的に多いんだし」
「あなたはどうなの。そこまで現役でいるつもりはあるの?」
「あと三十年以上か……気の遠くなる話だな。でも、最高齢記録を更新するつもりで頑張るよ。将棋以外に、なんもできないからなあ」
「それでいいわよ。将棋以外のことは、私がするから」
「なんだ、最近のお前は実にいい嫁さんだな」
「最近? 結婚してからずっとのつもりだけど」
その後も、まったりした会話を交わした。互いにプロ棋士の夫婦は、普段どんなことを話しているのかとよく聞かれる。もちろん世間一般の夫婦よりは将棋の話題が多いだろうが、身近なことや芸能界の噂話といった、どうでもいい雑談がほとんどだ。棋士は天才集団などと言われることもあるが、誇張されすぎだと高遠は思う。いたって普通で、凡人の集まりだ。やたらに特別視されないことが、今後の普及の鍵とも考えていた。
そうこうするうちに、日向が学校から帰ってきた。勢いよく自室にランドセルを置きに行き、そのまま友達のところへ出かけるんだろう……と思っていたら満面の笑みで父親に近寄ってくる。
「お父さん、伊達って人、知ってる?」
「どこの伊達さんだ?」
「ショーギの伊達さん」
「……伊達くんのことならよく知ってるけど、どうしたんだ? 将棋には興味なかったんじゃないのか」
まだ小学二年生の日向だが、父親の職業については一応把握している。日向自身は、たいして将棋に関心はないようで、山寺は自分と同じプロ棋士にしたいとは、まったく考えていない。高遠も同じ考えである。東大に合格するよりもプロ棋士になるほうが難しいとさえ言われるのだ。わざわざ苦労させようとは思わない。
「クラスの女の子がね、ショーギの伊達さん、カッコいいって」
「ああ、カッコいいな。……最近の伊達くんは、小学生にまで人気なのか?」
「バラエティ番組とか出てるじゃない。よくそんな暇があるなって思うけど」
「そういやそうか。テレビの威力ってのはすごいな。で、日向も伊達くんのことが気になるのか?」
「ううん、別に。でも一緒に写真に写れたら、自慢できるかなーって」
小学生らしい悪気のなさだった。ここのところ将棋以外の活動が活発な名人だが、さすがに我が子のために写真に写ってくれとは――
言える。この上ないシチュエーションが用意されているではないか。
「うーん、ちょっと難しいかな?」
「何言ってるの。いい方法があるじゃない。名人戦の前夜祭が」
「え?」
タイトル戦の前夜祭では、プロ棋士との写真撮影を楽しみにするファンが多い。挑戦者の子供がタイトルホルダーと写真に写っても、なんら不思議なことではないだろう……。
「写真、写れるの?」
「……ま、まあ、不可能じゃないな」
「やったあ!」
飛び上がって喜んだ日向は、風のように外へと駆け出していった。
「すっごい嬉しそうだったな……。こりゃ、期待を裏切れないな」
「そうよ。挑戦者にならなくても前夜祭にはお呼びがかかるだろうから――なんて考えたらダメ。絶対に挑戦者にならなくちゃ。っていうか名人にならなくちゃ。そして、あの子の誇りになるのよ」
「お、おお」
もう、変に遠慮しない。
名人になってもらいたい。プレッシャーになることを恐れず、何よりの応援の声として、届け続けると決心した。
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