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静かな甘い時間は、瞬く間に過ぎ去った。最終下校時刻のチャイムが無情に響き、来是は名残惜しさに胸が締め付けられる。
すっかり人気の途絶えた校舎を出る。グラウンドにも生徒は片手で数えるほど。そんな中、神薙紗津姫の姿は夕焼けよりもずっと存在感があり、彼女こそが唯一世界にある太陽に思えた。
音を奏でそうな麗しい黒髪。陶器を思わせる曲線の肌。花の瑞々しさを湛える唇。一年前、初めて出会ったときの衝撃はいまだ色褪せないが――今の神薙紗津姫は、あのときよりもはるかに美しくなっていた。
好きという強烈な感情に駆られるゆえの思い込み? そうではないだろう。紗津姫はきっと、依恋が日頃しているように――女の子としての魅力と容姿を磨くことにも目覚めている。
常に人に見られる仕事なのだ。将棋アイドル、芸能人という立場がそうさせているのは間違いない。
だが、他にも理由があるのだとしたら。
たとえば――恋をしているから。
と、急激に背筋の寒い思いがした。
「この状況って、あまりよくないんじゃ」
「何がでしょう?」
「先輩はアイドルなわけで……特定の男子と放課後遅くまで一緒にいるのは、どうなのかなーと」
「あら、そんなこと心配していたんですか?」
「だって、週刊誌に隠し撮りされたりとか! 名人からそういうの、注意されたりしてませんか? 熱愛発覚なんて書かれた日には、俺もう学校来れませんよ。……あんまりくっついてないほうが」
紗津姫は口元を押さえて、そっと笑った。
「私は普通のアイドルとは違いますから。スクープのネタになるとは思えませんし……伊達先生も恋愛に関しては特に何も言ってませんよ」
「いや、でも」
「どうしても気になるなら、来是くんの言うとおりにしますが……寂しいです」
「さ、寂しい……ですか」
「お互い、一年生の指導で手いっぱいだったでしょう? 今日は久しぶりに、ふたりきりで過ごせて嬉しかったです。明日からも同じようにって考えていたんですが」
何もしていないのにむせそうになる。
明日からも、放課後はふたりきりで。誰からも憧れを抱かれる女王が、アイドルが、自分に向けてそう言ったのだ。
「なんでしたら、依恋ちゃんも誘いますか? それならカップルには見えないと思いますけど」
「いや、ぜひ、ふたりで勉強したいっす!」
「わかりました。じゃあ……依恋ちゃんには内緒で」
重力が消えたように体が軽くなる。来是は文字どおり舞い上がって、空にも飛んでいけそうな気持ちになった。
――しかし、そう都合よく万事上手くいくはずもない。翌日の放課後、図書室で落ち合ったふたりの間に、思わぬ障害が立ちはだかった。
「ずるいじゃないですか。先輩とマンツーマンだなんて。私だって教わりたいですよ」
「同じくです!」
金子と山里、異色とも思える組み合わせである。来是はげんなりしながら聞いた。
「まさか、尾けてたのか?」
「尾けたわけじゃないですけど、春張くん、妙にいそいそしてるから気になったんですよ。何かあるなーって、ピンときたんです」
「……山里さんはどうして?」
「やー、私は単純に問題集でも解こうかと。数学苦手なんで。赤点ひとつでも取ったら、しばらく部活出られないっていうじゃないですか。それはさすがに避けたいですし」
「じゃ、四人で勉強しましょうか。わからないところがあったら、遠慮なく聞いてくださいね」
紗津姫の表情に、残念そうなものは見られなかった。あったとしても、自分と違って決して面には出さないだろう。来是はまた己の未熟を思い知った気分だった。
しばらくは誰も一言も発さずにペンを走らせていたが、山里が手を止め、来是にまっすぐな視線を向けた。聞かずにはおれない、というように。
「春張先輩と依恋先輩、幼馴染なんですよね?」
「そうだけど」
「一緒に勉強しないんですか?」
「……その予定はないな。あいつ、さっさと帰ってるみたいだし」
「じゃあ誘えばいいじゃないですか。みんなで楽しく勉強したいじゃないですか」
「君が依恋と一緒に勉強したいだけじゃないのか?」
「まあ、それもありますけど。ブログで初めて依恋先輩を見たときは、超衝撃でしたよ。こんな美人で可愛くてカッコいい人がいたなんて」
はにかむ山里。一年女子の大半が依恋に憧れているが、山里のそれは際立っている。依恋がそれほどの魅力を持っていることに異論などないが、同性の目から見た彼女のよさというものを、あらためて聞いてみたいと思った。
「ご存じと思いますけど、女流アマ名人戦で、横歩取りやりませんかって持ちかけたんです。そしたら依恋先輩、受けてくれて……見事に負かされました。あとで聞いたら、横歩取りの経験はほとんどなかったって。不利を承知で戦って、自力で最善の道を見つけた。カッコよすぎです」
うんうんと金子も同調する。
「カッコいいってのがポイントですよ。碧山さんって根っからの女の子なのに、男子顔負けなとこあるでしょう? なんというか、意志の強さみたいなものが全身から発散されてて」
何にも負けず、立ち向かう意思。そう、圧倒的な女王に対しても、依恋は決して負けないと挑み続けている……。
「依恋ちゃんの強さは、私にはないものですね。真似できないです」
そっと口にする紗津姫。少し儚そうな笑顔で、本心から言っているのがわかる。あの子には敵わないものがあると、認めている。
「そんなわけで、私は依恋先輩を心から応援してるわけでして……報われてほしいなあと」
報われる。何を意味しているかわからないほど、来是は鈍感ではないつもりだった。
金子もどちらかと言えば、山里に近いスタンスだろう。
依恋は、応援したくなる人?
それが紗津姫との一番の違いだとしたら……。女の子として真に恵まれているのは、どちらなのだろうか。