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☆
テスト期間は何事もなく経過した。
よい成績を取れば臨時の部費が支給されるので、来是は将棋のことをできるかぎり忘れて勉強に励んだが、規定の成績に届く手応えはなかった。当たり前だが、一年時に比べて授業の難易度は上がっている。今後もこっち方面では部の力になれそうにないなと思った。
しかし常に学年トップを誇る紗津姫と、五位以内には入る依恋がいる。毎度一定額は入ってくるのだ。その使い道を議論するのは、テスト最終日の恒例となっていた。
「何を買おうか?」
「もう盤駒は充分だし、積み立てておけばいいんじゃないの。夏の合宿に充てるとかさ」
「まあ、まだ結果発表はされていませんから」
紗津姫がそんなことを言うのも、いつものことだった。
ともあれ、やっとテストは終了した。今日の部活は午後一時からで、予定のとおり紗津姫が名人戦を解説する。来是と依恋が購買で昼食を調達してから部室に向かうとすでに紗津姫がおり、大盤とテーブルの拭き掃除に勤しんでいた。そんなのは一年にやらせればいいと言っても、彼女は決して頷きはしない。結局来是と依恋も手伝い、およそ十日分の埃を落としてからランチタイムに入ったのだった。
「で、どうですかね、この第四局は」
おにぎり片手に、スマホを操作する。名人戦も昼食休憩の最中で局面は止まっているが、いよいよ豊田挑戦者が攻めかからんとしていた。
「来是くんはどう見ますか?」
「うーん……やや先手持ちです」
伊達名人の先手で始まった第四局は、豊田八段の意外な趣向により序盤からファンの興奮を誘った。
角道を閉じて飛車を振る、ノーマル四間飛車。角交換四間飛車の発展に伴ってそう呼ばれるようになった従来型の戦法だ。
豊田もまたオールラウンダーとして知られているので、飛車を振ること自体に驚きはない。だが伊達は、近年やや珍しいと捉えられているこの戦法をいかに迎え撃とうかと、一日目から長考を繰り返した。
【図は△7六歩まで】
そしてこの二日目、他のプロ棋士が「斬新な駒組みだ」と称賛する手順で穴熊に潜った。豊田もまた穴熊囲いを形成し、相穴熊となっている。互いが城に立てこもり、砲弾戦を繰り広げているという様相だ。
「穴熊が好きな私としては、とても楽しい将棋ですよ。対ノーマル四間に、まだこんな戦い方があったんですね」
「あたしも振り飛車党として、期待してるんだけどね。先手のほうが固いじゃない。名人の優勢じゃないの」
「だよな。後手は金銀二枚だけど、先手は四枚だ」
伊達は攻めに使うべきとされる右の銀も、囲いのパーツとしていた。まさに鋼の城塞、初心者の一年生たちでも、あまりに攻略困難とわかるだろう。
やはり守備を固めたほうが指しやすい。それは認める。だが……。
「来是くんなら、棒銀で行きましたか?」
「うお、心を読んだんですか?」
「それだけあんたの頭は、単純ってことでしょ」
「どーせ単純だよ。……でも、確かに棒銀で行きますよ。こういうじっくりした、駒がゴチャゴチャしてる戦いより、そっちのほうが好きです」
本局の序盤を見たとき、名人には少し期待した。定跡を外れた戦いをしたいというなら、ぜひ急戦に、棒銀に出てくれと。そしてこれまでの定説を覆す新手を見せてくれと。
他ならぬ名人が指すのなら、誰もが認めてくれる。俺の進む道は間違いじゃないと……。しかしその期待に応えてはくれなかった。
「やっぱ伊達さんも、負けにくい戦いをするってことですよね。引退がかかってるから、当たり前ですけど」
「……そうですね。でも水面下では、棒銀の研究をしているかもしれませんよ? 今度聞いてみましょうか」
来是は形だけ頷いておいた。紗津姫が気を遣ってくれたのはありがたいが、その可能性は低いだろう。
現実というものを、しっかり見据えなければならない。俺が進もうとしているのは、プロでさえ、名人でさえ避けて通る道なのだ……。
次第に部員たちが集まってきて、昼食休憩明けと同時に解説会はスタートする。紗津姫は初手から、初心者向けの丁寧な語り口で進めていく。来是は雑念を振り切り、名人の将棋を吸収せんと意識を集中した。
まだまだ微妙な形勢。しかし伊達名人の隙を作らない指し回しに、豊田挑戦者は困っているように見える。そのうちに紗津姫も名人持ちの見解を示し、そうなるとますます伊達の有利は確定と思える。それだけの信用が彼女にはあるのだ。
やがて午後三時、休憩に入ったところで来是は席を立った。
「先輩、俺はこれで……」
「ええ、摩子ちゃんによろしく」
「春張先輩、帰るんですか? ていうか摩子ちゃんって」
山里が聞いた。これからも同じ理由で抜けることはあるだろうし、隠すことでもないので教えることにした。
「将棋カフェ・タカトーってとこでも解説会やるんだけど、その手伝い。女流の出水摩子さんが解説するんだよ」
「すげー、プロの現場でバイトっすか!」
「出水さんって、あのドS美少女棋士の?」
「行けば会えるってことですか? そっちにも行ってみたかったなあ……」
やたら感心する一年たち。プロとお近づきになれてうらやましい、と思っているのだろうか。出水の冷酷な眼差しに幾度となく射抜かれてきた身としては、憧れだけで済ませておけと全力で言いたいところである。
「先輩の解説だってプロ並なんだから、みんなは俺の分までしっかり楽しんでな」