◇やり直しの物語〜納得いく終末を目指して
◇選択の物語〜母親からの自立の先に
◇魔法少女の運命〜生か死か魔女か
◇謎の存在キュウべえ〜一個体をどこまで尊重するのか
◇魔法少女と生きづらさ
◇最も人間的な美樹さやか
◇恨みや妬みある世界という設定は変わらない?
(フリーライター/渋井哲也)
「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ」(「まど☆マギ」)の前編、後編を見終わって、この映画について語ろうと思う。言うまでもなく、ネタバレ部分があるので、「これから見たいので、知りたくない」という人は、この記事は見ないように。それにしても、土曜日の昼間とは、劇場は前編、後編ともに満席状態。一体、なぜ、「まど☆マギ」がそこまで人々を魅了させたのだろうか。
私がこの作品を知ったのは、ネットの動画サイトだった。そういえば、「ひぐらしの鳴くころに」も動画サイトで知った。そのときは、「まど☆マギ」を見たとき、動物のようにも見える「キュウべえ」が、主人公の鹿目まどかに「君たちにお願いがあってやって来たんだ。僕と契約して、魔法少女になってよ」というセリフにびっくりした。しかも、口パクがない。テレパシーで会話をしているのだろうか。そもそも、キュウべえは「魔法少女とは何か」ときちんと説明せず、別の登場人物によって説明がされていく。詐欺的な手口なんじゃないかと思いたくなる。最初はカワイいい存在であり、正義の味方かと思わせるが、実は....。
◇やり直しの物語〜納得いく終末を目指して
内容的には劇場版の前編、後編はともに基本的にはテレビ版のストーリーをなぞっている。大枠のストーリーは同じだ。冒頭の部分では、テレビ版では、暁美ほむらが魔女と闘っているシーンの『夢』を、鹿目まどかが見ているところから始まる。あれは「夢」だったのだろうか?と疑問に思えるが、テレビ版では「夢」として位置づけられている。この冒頭が劇場版ではない。なぜ、劇場版ではなくしたのだろうか。やはり、後編へのネタバレ部分ではあるので、前編ではカットしたかったのではないか。
では、その二人の出会いは「夢」だったのか?おそらく、違っている。暁美ほむらは、別の時間軸、最初の体験の中では、すでに魔法少女になっていた鹿目まどかに、魔女から救われる。しかし、見滝原市にワルプルギスの夜が訪れる。魔女が襲ってくるのだ。そのときに鹿目まどかは魔女を倒せない。死に絶えそうな鹿目まどか見て、守る側になりたいと思った暁美ほむらは、鹿目まどかとの出会いをやり直すという奇跡と引き換えに魔法少女になった。そのため、暁美ほむらは時間操作の魔術を得る。
しかし、何度やっても、「ワルプルギスの夜」に勝てない。そのため、暁美ほむらは何度も同じ時間を繰り返していく。いわばパラレルワールドを体験することになる。これは、「ひぐらしのなく頃に」の古手梨花と似ている。昭和58年6月に殺害される運命をさけるために、何度もその時間を繰り返していく。自分の納得のいくストーリーを求めて、時間を旅をするのだが、いわば、ゲームのリセットを思い起こすが、それと同時に、同人誌文化で起きる「納得できる別のオチ」に似ている。エヴァンゲリオンのテレビ版の最終2話が、ファンに納得いくものではなかったために、いわば映画でやり直したことがあった。そのやり直しの物語を、その物語の中で展開していく。これは「未来日記」でも同じことが言える手法でもある。
希望と絶望の繰り返し。そんな世界観をベースにしたアニメは多い。「新世紀エヴァンゲリオン」も、希望と絶望を繰り返しながら、パイロットたちが成長していく物語だ。とはいっても、エヴァンゲリオンの初号期パイロット・碇シンジが、乗ろうと思った理由が、傷付いた綾波レイを見て、「逃げちゃ駄目だ」と思ったこと、のちに乗り続ける理由として「お父さんにほめられたい」というのがある。世界を救うという大事業に乗り出すのに、想像できるコミュニティの範囲は狭い。守るべきものは、綾波レイや惣流アスカ・ラングレーといった身近な人物だった。そこにコミュニティという考えはない。
「まど☆マギ」では、エヴァよりもさらに狭い。エヴァの描く世界の範囲は、第3東京市や第2東京、日本、ドイツ、南極など、地球規模の広範囲にわたっている。しかし、まど☆マギは、見滝原市だけ。ただ、そこにはコミュニティという発想が見て取れる。「見滝原市の平和は私が守る」という美樹さかやのセリフがあるが、中学生の行動範囲の狭さと同時に、子ども時代の世界の規模をきちんと表しているように思える。世界を救うとか、人類を救いという抽象的な概念ではなく、目の前の魔女を倒すことが見滝原市の平和につながる。妙に現実感があるアニメだと感じるはこうした世界の範囲が関係しているのかもしれない。
◇選択の物語〜母親からの自立の先に
このアニメでは、鹿目まどかの家族が描かれている。父親と母親、そして弟だ。父親は専業主夫。母親はバリキャリ。「男は仕事、女は家庭」という近代的な性役割り分業とは反対だ。実は、この環境は私の中高時代に似ている。父親は病気がちだったために、ずっと家にいたと記憶している。一方、母親は毎日のように仕事に出て行った。自分自身の両親も鹿目家と同じように「女が仕事、男が家庭」だった。ただ近代的な家族ではなく、ポスト近代的な家族を描くことで、何を言いたかったのだろうか。母親との物語を強調するとしても、ポスト近代的な家族かどうかはそれほど関係がないように思える。しかし、これが逆も言えて、「男が仕事、女が家庭」という家族を描いたとしても、特に設定上の変化は見られない。
しかしながら、鹿目まどかと家族の会話は、ほとんどが母親とのものだ。劇場版で父親と話すシーンは最初だけ。あとは母親との会話のみだ。その意味では、母親の存在を強調する材料にはなっているのかもしれない。しかも、思春期の少女の世界観では、父親が出てこないのが当たり前か。専業主夫であり、家にいる時間が長いはずなのに、心理的には父親との距離は遠いのだろう。母親は近いらしく、朝でも夜でも少しの時間を見つけては相談をする。
母親は物語の冒頭で、ピンクのリボンを鹿目まどかに渡す。それが「隠れまどかファン」のためだと思えば、美人になれると言い、中学生らしいカワイイ女の子になるための母親なりのアドバイスだった。物語の中では、徐々に母親から自立していく。間違ったことをせずに成長した鹿目まどかが、母親の知らない世界に旅だっていく。それこそが「成長物語」たるゆえんでもある。いわば、選択の物語でもある。
鹿目まどかがワルプルギスの夜に出向くときも、母親が鹿目まどかを止めようとする。そして、本当に行くのか?誰かにだまされてはいないか?と、何かを知っているかのように説得をする。その前に、美樹さやかが亡くなったことをで、担任であり、かつての同級生でもある早乙女和子と2人でお酒を飲んでいるシーンがある。そこで、母親として娘の考えていることがわからないと告白している。鹿目まどかは、すでに母親の知る世界から飛び出していた。しかし、もしかして、鹿目まどかの謎を知っているんじゃないか?と思わせる。ひょっとして、母親も昔は魔法少女だったんじゃ?と思ってしまった。