世界初の先物取引所
前回、前々回とお話ししてきましたローソク足。あんまり引っ張るのもなんですが、今回は毛色の違った話をして、それでローソク足の話を終わりにしましょう。
この、ローソク足というチャートの書き方、欧米でも使われていますが、実は日本発祥です。江戸時代の日本は、国内での物流がとても栄えていて、産業革命の直前といわれる位まで経済が複雑化していました。
例えば、紀州(和歌山)のみかんが、船に乗せられて江戸(東京)に運ばれたり、蝦夷地(北海道南部)で取れた小魚が肥料として全国に流通したり。
あるいは、各地の藩校に他藩からの留学生がやってきて学問的な交流をしたり、参勤交代やお伊勢参りで大規模な人の移動があったり。
その中でも、米の流通は主食であること、当時の経済の尺度が石高制で米を基本としていたことなどから、とりわけ大切な商品でした。また東北を中心に、不作であれば飢饉が起こるなど、その需給も大きく揺れました。
このため、当時の商業の中心地だった大阪の堂島というところに米相場(米会所といったそうです)が立ち、活発に取引がなされていたのです。この堂島米会所では、現物取引のほかに今で言う先物取引も行われており、世界初の先物取引所でした。
日本人が開発したローソク足
この米相場を分析し、その動向を先読みしなければ、米問屋はあっという間に潰れてしまいます。そこで相場の分析は、身上を賭けた取引になり、その先読みの方法が活発に研究されたようです。
そのなかから、投機(実需に基づかず、相場の先読みに賭けることで利益を得ようとする行為)に手を染める者も現れました。
当初、そのような輩は「本業ではないことに手を染めた」とか「家訓に反する」などと評価され、商家から勘当される例などもあったようです。
しかし、そのなかから、山形県酒田出身の本間宗久という達人が現れ、大阪や江戸の米商いで巨利を得、勘当された本家とも縁りを戻すなど、高く評価されるようになりました。当時、「本間さまには及びもないが、せめてなりたや殿様に」なんて囃し唄が流行したそうです。
この本間宗久が開発したとされるのが、ローソク足なのです。
また、過去の相場の値動きのパターンから、その先を読む「テクニカル分析」という投資手法も、本間宗久が創始したとされています(ただ、残っている書物などの時代が微妙に合わないなど、本当かどうかはわからないようです)。
テクニカル分析は欧米でも独自に発達し、更に日欧の手法が融合したり、いいとこどりしたり、様々に展開して現在に至っています。テクニカル分析のキモは、どうも、人間心理がその中に反映される、ということのようです。その辺のことは、また今度お話ししましょう。