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些々暮さん のコメント

「あはれとも いふべき人は 思ほえで
身のいたづらに なりぬべきかな」
これは四十五首、謙徳公つまり藤原伊伊が詠んだ歌でって振り返るといつも通りクラスの半分以上が机に突っ伏していて誰一人聞いていない。いや、誰一人というのは語弊でこのクラス内にも内申点、教師からの印象やらを気にしている子がいるからそういう子たちは聞いてるのよ。うん、わかるよ。古典の授業って面白くないよね、特に最近ずっと百人一首だし。私が教室に入って、号令して教科書開いた瞬間に、今日は何するんですかーってこのクラスの中心的なヤンチャで運動神経良いんでモテますって顔に書いてあるような男子が言い出して、私は勿論大人だからね「百人一首の続きをします」って言ったわよ。それはもう女神の微笑みを湛えてね。そうしたらさっきまで"エモい"だのなかじーがどーのこーのだの言ってた女子たちが、っていうか古語って何語?読めるけどマジ意味わからんし。一限からってありえなくない?コレジャナイ感。って言い出して、いやそう言われたって私もあんたらより早く出勤してほぼ誰も聞いてないホームルームして時間割通りに担当クラスに向かって教室の扉の前で一回深呼吸しておずおずと入った早々にこんなこと言われたか無いんですけどって思いながらまあ勿論スルーして、チョーク持って百人一首を黒板に写しながら、ここでチョークを床に投げつけながら暴言の一つや二つを吐いて教室を去ることが出来たら一体この子たちはどんな表情するのかなとか想像するとアドレナリンが溢れて何だか楽しくて仕方なくなってきた。保護者とか他の教師陣、退職云々のことは勿論考えてはいない。結局実行しないしね。じゃあ脳内を冒頭に戻そうか。「この歌で用いられている"あはれ"と七十五首、藤原基俊の歌で用いられている"あはれ"はどちらも悲哀美を表しています。よく、"あはれ"と"をかし"の違いを教えてって言ってくる人がいるけど、うん、そうそうテスト前とかね、あぁ、中間前に鈴木くんも聞いてきてくれたよね、うん、そうね。その時と大体同じこと言うと思うからシャーペン一回置いて話だけ聞いてくれたらいいよ。それでね、"あはれ"と"をかし"は表現的には確かに似てるの。どちらも平安時代の文学に於ける基本的な美的理念で感情を表す言葉。それこそ感動したとか美しい、優れているなんかの意味を持ちます。"あはれ"は深いしみじみとした感情の他に悲しいとか人情っていう寂しげな意味も含まれる。でも"をかし"の方は滑稽、とか愛らしいっていうあまりマイナスなイメージはないのが違う点かな。どちらも感動したっていう意味はあるんだけど"あはれ"の方は後に派生した形が多いの。更に"をかし"はその対象に感情移入をするんじゃなくて知的、批評的に…つまり観察なんかをして鋭い感覚をもって対象を捉えることによって趣を感じた時に使われるんだけど、"あはれ"はそれに比べたら深くその対象に心を寄せて悲しんだり感動したりしている時に使われます。今の皆で言うところの"エモい"って言葉と同じ感じかな。"エモい"って言葉で一括りにしてもその人によって感じ方は様々だとは思うし。」だから人によってその出来事、人、感情が"あはれ"と"をかし"のどちらに近い感情なのかが国語教師としては気になる。一番多感な時期で義務教育とは違う外からの刺激も受け変化の多い生活をしているこの子たちの感情はあっちへ行ったりこっちへ行ったりでてんてこ舞いだろう。今のうちに文字を使ってその時の感情を生々しく残し、数年後に見直したりすると当時の思い出がありありと蘇って若かったなーって一人で感傷に浸れるから最高なんだけど…。あれ?これって又の名を黒歴史とも言います?…まあ今のこの子たちがそこまで一つの出来事に対して趣や感動を感じているのかは分からないし、私みたいな青春を送る人も多くないだろうから文字で残すのは安易にお勧め出来ないな。でも、考えてみれば昔の人でも"あはれ"や"をかし"で幾つもの感情を表していたんだから今の子たちが"エモい"の一言で色んな感情を括っちゃうのも日本人の遺伝子としては合ってたりして。あ、「じゃあチャイム鳴ったから号令〜。来週は百人一首暗記の小テストするから最低五十首書けない人は何回でも再テストです。担任の先生には不合格者伝えるから逃げたら良いとか思わないように〜以上。」
No.36
54ヶ月前
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