もうだめなんだ、とアツタさんに言われた。いつかはくるだろうな、そうだろうな、とは思っていた。だけど実際に言われたら想像よりずっと悲しくて、アツタさんのいない生活がいやで、両目からだらしなく涙があふれた。頰を伝って顎の先に溜まり、したたりおちて裸の胸を濡らす。
「どうしても?」
「うん、妻がね」
 妻がね、ときた。妻じゃあ、しかたない。離婚はしないともう何年も前に言われている。アツタさんは奥さんとお子さんのことをとても愛している。私のところに来るのは、家族の前で一番いい自分でいるための調整みたいなものらしい。
 アツタさんは固太りした大柄な体を、ふう、とため息でしぼませる。
「ユマちゃんには悪いけど、暮らしは困らないようにするから」
「お金はいいよ。もうそんなに大変じゃないし」
「でも、なにかさ。金がいやなら、貴金属とか時計でも。十年も世話になったんだ」
 十年という言葉に胸を刺され、またぶわりと涙がふくらんだ。初めて会ったとき、私は芸能事務所に所属する女優志望の十八歳で、アツタさんは数あるスポンサー企業の一社の社長だった。事務所主催のパーティで私が接待役についたことから縁が始まり、なにかあったら応援するから、と言われて連絡先を交換した。
 台所から大型施設まで、ありとあらゆる照明器具を手がける新興メーカーを一代で立ち上げたアツタさんは野心家で頭の回転が速く、それでいて能力を鼻にかけるところがなかった。世間に疎い私のためにパーティで交わされるビジネスの言葉を嚙み砕いて教えてくれたり、恥を搔かないようさりげなくフォローをしてくれたりと、そういうことを当たり前のようにやった。私はすぐにアツタさんに夢中になり、誘いを受けたときには喜びのあまり、大きなケーキと花束を抱えてホテルの部屋に向かった。アツタさんは私の格好を見て、咳き込むほど笑い続けた。
 数年後、私は芽が出ないまま事務所を辞めて就職し、けれどアツタさんとの関係はその後も続いた。私とアツタさんは多分、性格的な相性が良かったのだろう。一緒にくだらない話で盛り上がり、笑っていることが多かった。
 時計も貴金属も、特に欲しいものはないよ。口にすると、アツタさんは困ったとばかりに首を左右に振ってうなじを搔いた。私より一回りは年上の、四十代半ばに差しかかるだろう熟した大人なのに、そういう仕草をする彼は時々、学生みたいに幼く見える。
「とにかくなにか贈らせてくれよ。なんでもいいから」
「じゃあ、腕がいい」
「腕? 俺の?」
「うん。寝るときに撫でてもらうの好きだった」
 呻きながら、アツタさんは眉間にしわを寄せて考え込んだ。腕を交差させて両肩を包み、肘、手首へと撫で下げてからしげしげと左右のてのひらを開いて眺める。私はなにも言わずに返事を待った。やがてこちらを向いたアツタさんは、利き手でなくていい? と穏やかに聞いた。
「いい。いいよ、もちろん」
「じゃあ、左腕な。うん、義手もいいのが出てるし、そんなに仕事で困ることもないだろう。いいよあげる。十年だもんな。ずいぶん世話になったし」
 アツタさんはそう言って、右手を左肩へ当てた。骨が皮膚を押し上げている部分に親指を添えて、くっ、くっ、と押しながら曲げた左肘を小さく回す。不意に肩の位置ががくんと下がり、体に不自然な段差が出来た。アツタさんはもう一方の手で力の失せた左腕をつかみ、軽く回転させてぴりぴりと皮膚を破りながら、慎重にちぎり取っていく。
「はい、どうぞ。大事にしてね」
「ありがとう」
 渡された温かい腕を素肌の太腿に乗せる。胴体から離れた腕は思ったよりも重く、抱えるのに力がいった。やわやわと戸惑い混じりに揺れる指に、こちらの指を絡ませる。指は迷いつつも動くのをやめて、ひとまず環境の変化を受け入れてくれた。
「嬉しい」
「そりゃよかった。俺も、ユマちゃんと一緒にいて楽しかったよ」
 元気でね、幸せになるんだよ、と最後に私の頭を撫で、ぎこちなく片腕だけで服を着たアツタさんはホテルの部屋から出て行った。扉が閉まる。オートロックがかかり、この腕は本当に私だけのものになった。
 ふと、別れを告げられた瞬間の悲しさが引いていることに気がついた。むしろ、ずっとこわかったものを無事にやり過ごしたような、必要なものを守り切れたような、そんな充足感すらある。膝の上にうずくまる腕をそっとシーツへ下ろしてみる。腕は一瞬だけ私の膝へ指先を向けて未練をみせ、けれどすぐに糊のきいたシーツへ気持ちよさそうに横たわった。
 アツタさんの左腕は私に比べて色が薄い。手は平べったく、表面に幾筋もの血管が走っていて、指の形が四角い。爪は深爪気味で、白い部分が見当たらなかった。指を動かしたり手をねじったりするたび、手首と肘の内側に挟まれた柔らかい側面にうっすらと数本の筋が浮き上がる。私はそれが好きで、この腕がアツタさんの体についていたときにもよく触らせてもらっていたのだけど、あまり触ると「なんかぞわぞわする」と逃げられた。
 腕に浮き上がった筋を、肘から手首の方向へすっと撫で上げる。腕はわずかに指を揺らす程度でそれほど嫌がらない。そばに寝転んで顔を寄せ、筋と筋が作る薄いくぼみを舐めてみた。くすぐったかったのか腕は何度かシーツを叩き、肘をたわめて私の頭を抱え込んだ。体についていたときとまったく同じ動きで、前髪の生え際を撫でられる。
 短く眠り、チェックアウトの時間ぎりぎりにホテルを出た。帰りにデパートで背の高いガラス製の花瓶を買った。電車でも町中でも、私は自分の腰に巻き付かせた腕とコートの内側でずっと手をつないでいた。

 単身赴任中の家族がさみしくないようお守り代わりに指を贈ったり、若い恋人達が腕を交換したりというのはよく聞く話だが、よほど親しくなければ行われない風習なので、私が誰かの腕を手に入れるのは初めてだった。うちになじんでくれるか心配だったけれど、始めてしまえば腕との暮らしはとても快適だった。
 日中は、窓辺に置いた花瓶に新鮮な水を張ってそこに生けておけばいい。仕事から帰宅する頃には、水と日射しを吸ってすっかり元気になった腕が嬉しげに迎えてくれる。抱き上げて一緒に風呂に入り、指の一本一本、手の甲のしわ、爪の間まで丁寧に洗い上げる。柔らかいタオルで水滴をぬぐい、保湿クリームを塗ってから清涼感のある香水を一吹きする。清潔で温かく、いい匂いのする男の腕を抱きしめているだけで、一日の疲れが抜けていくのを感じた。
 お湯で皮膚が柔らかくなった腕を膝に乗せてビールを飲み、録り溜めていたテレビ番組を観る。時々、指が悪戯を仕掛けるように体を這い上ってくる。頰に触れられたのをきっかけに人差し指を嚙むと、うっすらと甘い脂と塩の味がした。もぞもぞと口の中へもぐり込み、アツタさんと同じ仕草で舌をくすぐられる。腕は、人なつこくてさみしがりだった。いつも紳士的で弱みなんて微塵も見せなかったけれど、きっとアツタさんにはそういうところがあったのだ。
 一人で暮らしていると、欠けている、と思う瞬間がどうしても出てくる。お腹がいっぱいで仕事も順調で、明日もとりあえずなんとかなりそうで、いい、という状態でも欠けている。私だけがいいと思うのではなく、誰かにいいと言われたくなる。
 アツタさんは会うたびにいつも褒めてくれた。がんばってる、えらい、ちゃんとしてる。そういう言葉を差し出す代わりに、自分は一回り若い女を魅了しているという自信をホテルの部屋から持ち帰っていたのだろう。アツタさんがいなくなるのはこわかったけれど、アツタさんの腕は充分に私を褒め、いたわり、甘やかしてくれた。生活がくるりと丸くなり、これ以上望むものがなくなる。

 休日の午後に、来客を告げる呼び鈴が鳴った。私は一週間分の汚れた衣類を洗濯している最中で、買い替え時の古い洗濯機ががたがたごとごとごうんごうんと部屋中に騒音を広げていた。
 はーい、となにも考えずに扉を開け、宅配業者にも訪問販売にも見えない、一目で高級品だとわかる品の良いカシミアワンピースをさらりと着こなす美しい女が立っていることに驚いた。なぜか女の方も、私を見て意外そうに目を大きくする。
 私がなにか言うよりも先に、女は「アツタです」と切り出した。
 アツタ? と間抜けに聞き返し、五秒たってようやく彼女の正体がわかる。あ……あーあー、アツタさん、はい、ええと、こんにちは。
 こんにちは、とよく響く声で返し、妻は口をつぐんだ。まだ表情に戸惑いがにじんでいる。目鼻立ちの整った端整な顔立ちだが目尻の辺りにどことなく陰があって、それが一層彼女を魅力的に見せている感じがした。光の帯をまとう健康的なロングヘア。薄化粧にもかかわらず白くなめらかな肌。赤が強めの口紅を差しているのが、小さな薔薇をくわえているみたいに可憐だ。
 ごうんごうんごうん、ざざー、しゅーこっ、しゅーこっ。濡れた衣服を脱水する音が、見つめ合う私たちの間にすべり込む。
「今、洗濯中で。部屋がうるさいから、どこか外に行きませんか」
「あ、いえ」
 妻の目線が一瞬私の胸元をさ迷う。薔薇の唇がそっとほころび、手短に、と言葉を紡いだ。
「主人の腕を返して下さい」
 洗濯機よ、もっとうるさくうなってくれ。この人を追い返せるぐらいに。願いもむなしく洗濯完了のアラームが鳴り響き、部屋は静けさに包まれた。すっぴんの私は寝癖のついた髪にスウェット姿で、彼女を部屋に招き入れた。

 アツタさんの妻が美しかったことが、こんなにショックだなんて思わなかった。小学生の息子二人を毎日叱り飛ばしているという話を聞いて以来、小太りで力強い肝っ玉母さんのイメージを勝手に作っていたのかも知れない。こんな人がそばに居てどうして外に女を作る必要があったのだろうと、十年も一緒にいたアツタさんが急によくわからなくなる。
 カーペットに散らばっていた乾燥済みの洗濯物やアイロン台を片付ける間、妻は特に感情を見せずに汚れた食器の残る流し台のそばで私の部屋を見回していた。
「あの人もここに来たことがあるの?」
「はあ? ないですよ。こんなところにお金持ちの社長さん呼んでどうするんですか」
 急に妻が黙ったので怪訝に思って顔を見ると、なぜか心もち目を逸らされた。マグカップにインスタントコーヒーを用意し、やっと片付いたローテーブルに向かい合わせに並べる。
「よくわかんないけど、これ飲んだら帰って下さい。私も忙しいんです。洗濯物干さなきゃいけないし」
 妻は立った位置から動かず、コーヒーはいらない、と首を振った。
「腕を返して。そうしたらすぐにいなくなるから」
「返してもなにも、あれは私がもらったものです」
「なんでそんなに偉そうな態度とれるの」
 長いため息をつき、妻はぐるりと首を回した。
「結婚してるの。私、あの人と」


※1月16日(火)18時~生放送